文献に「クスリ」登場


文献に「クスリ」

 はじめに「クスリ」という文字が記録のうえにあらわれてきた例を紹介する。最初におおやけになったのはのは「正保日本図」という幕府の制作した絵図のうえであった。また、釧路で実際におきた事件の記録は、寛永20年(1643)に厚岸湾にオランダ船がきた事件にかかわって、釧路の地名が「クスリ」と記載されたことにはじまる。「正保日本地図」がおおおやけにされた正保元年(1644)より1年はやい。

「正保日本図」

 江戸幕府も安定のきざしがみえた正保元年(1644)、「正保日本図」がつくられた。この絵図のなかに「クスリ」の文字がみえる。襟裳岬の東にトカチ・シラヌカ・アッケシなどもある。「蝦夷ヶ島」などとよばれていた北海道島が南北に長くえがかれている。このように南北に長くえがくのは、このころの絵図の特徴であって、寛政期までつづく。厚岸より東のことはよくわかっていないのだろうか。野付半島にあたるところが「小舟の間」、国後の島がやや大きく書かれてはいる。しかし、根室・知床半島・斜里・網走のあたりは記載されていない。

アイヌの勢力を図示

 アッケシでは鷹の真羽を産するとある。トカチ・シラヌカ・クリス・アッケシとあるのは、地名というよりも、勢力をなすアイヌの存在を示すものである。「正保日本図」は幕府が各藩に命じて領域図を提出させ、これをもとにつくったものという。松前藩では寛永10年と12年に、藩士を巡回させて地形調査をしたことがある。寛永12年には村上掃部左衛門が島をまわり絵図をのこした。トカチの金山を視察したことがある。「正保日本図」は松前藩にとっては初の絵図であるが、この図がつくられるころには、わが「クスリ」の存在もしられるようになってきたらしい。「正保日本図」の中身はそのころの松前藩の認識を示すとともに、「クスリ」の名が幕府の文書にあらわれたり、「クスリ」の地名が国内に知られるようになったことを示す。

オランダ船厚岸へ

 正保日本図の作製より1年はやい、寛永20年(1643)旧暦7月(8月15日)オランダ船が厚岸湾についた。厚岸にきていたオランダ船は、東インド会社の要請をうけ日本周辺の金・銀を調査中であった。船名はカリトリクム号。司令官はマールチン・ゲルリッツエン・フリースである。今、「1643年日本東北部に於けるフリースの旅行記」という報告書がのこされている。記録のあるものとしては蝦夷地にあらわれたはじめての外国船である。

「松前年々記」

 このとき松前藩の交易船もアッケシにいてオランダ船と出会った。事件は「福山秘府」「松前年々記」という本に記録されている。この本によると、松前藩の交易船には小山丑兵衛と船頭弥兵衛がのっていた。ふたりは旧暦7月12日(8月26日)に「黒船」にでかけていき、詳しく調べた。それより松前に報告のため2人は「クスリエ戻り」松前への日和(ひより)をまっているうちに、「黒船」はアッケシを出帆し南東へ向かって立ちさったという。日和(ひより)とは船がはしるのにふさわしい風向き、波が穏やかになるのを待つことである。

「クスリ」は寛永期から

 「松前年々記」という本は、亨保4年(1719)〜寛保元年(1741)にできたらしいから、事件からおよそ100年も過ぎている。オランダ船が来たことは、松前藩にとりたいへんショキングなことであったはずである。オランダ船のやってきた記録と正保日本図の2つの記録をつきあわせてみると、寛永20年(1643)までには、アッケシと共にクスリも記録にあらわれるようになってきた。

松前藩の収入源

 文献に「クスリ」が登場するようになったところ、松前藩とアイヌは交易を通じて結ばれていた。というのは松前藩には本州のいろんな藩にみられない大変ユニークなところがある。松前藩の財政のもとは米の生産と流通を基盤にしていない。その理由は米つくりがなりたたないことにある。かわって島のアイヌと本州商品の中継交易による利益で、松前藩の財政がなりたっている。そこで松前藩は、アイヌとの交易という方法で本州のほうに売り渡す商品を手に入れていた。

東方アイヌ松前へ

 まずアイヌとの交易のおこなわれる位置についてである。元和年間(1615〜24)の宣教師の記録には、メナシのアイヌが大きなラッコ皮を松前にもってきて献上した、という報告がある。メナシは「東方」をさす。目梨郡というのがあって、これは国後の島をまじかにながめることのできる羅臼町のあることはよくしられている。このころ「ナメシ」というとき「蝦夷地を東西に流れる河川の東の川口、蝦夷地の中央と東西に走る大山脈の東の端の地域」と書いている。いまの目梨郡は知床半島の1部をさすが、そのころはこれよりはるかに広いところをさしていた。

現存する最古の蝦夷地図(『北海道古地図集成』掲載 )

「ウイマム」の礼

 とにかく、北海道の太平洋岸のアイヌたちがラッコ皮をたずさえて松前の地をふみ、産品のラッコ皮を献上したと記録されている。アイヌたちは筵(むしろ)帆の縄綴船(なわとじぶね)をつかい63日の航海で松前にくる。「臘虎という島」=ウルップ島からでるやわらかいラッコ皮、生きた鷹や鶴、日本人が矢に用いる鷲の羽をもたらすということである。産物をもちより、藩主にあって定期に交易することを約束する。
 この儀式は「ウイマム」とよばれている。この時期に松前にでかけていたのはナメシのアイヌばかりではない。天塩のアイヌも松前にでかけている。蝦夷地のアイヌが松前にでかけて松前氏の権力に服従し、松前氏はかれらの航海の安全を保証した。つまり危害をおよぼす者がでてくれば、松前氏の軍事力で排除すると約束した。蝦夷地と松前の間で定期的に交易がおこなわれ、政治的な面とともに経済的な結び付きもつよかった。

松前氏の交易独占

 島のアイヌたちは実に幅広く活動していた。秋田・津軽まででかけている。魚類・動物の皮などを持参し、綿やそのほかの生活必需品をもとめ、「蝦夷」と称する島にもどっていた。しかし、松前慶広が豊臣秀吉や徳川家康らの全国を統一した政権に、「蝦夷地島主」の地位を認められると、この状況は著しくかわってくる。(1)アイヌが津軽海峡をこえて本州に交易にいった、(2)アイヌと本州側の商人との直接交易、(3)松前をのぞいたところでの交易という記事があらわれなくなった。これは、(1)〜(3)のうごきが禁止されたことをうかがわせている。

アイヌに移動制限

 松前氏はアイヌと交易する権利をひとりじめにした。そしてアイヌを蝦夷地の島の中にとじこめてしまった。それも松前氏の力ばかりでなく、豊臣・徳川などいわゆる統一政権による保証をバックにしている。かくて、豊臣氏の朱印状を手にしたあと、松前氏の前身である蠣崎氏は、アイヌの代表を集めて宣言する。アイヌが命令に反しあるいは商人に乱暴する時、関白殿が数十万を派遣してアイヌを攻めると。

東部での交易

 ところで、オランダ船が厚岸湾にたどりついた時、松前藩の交易船がきていたと紹介した。「メナシのアイヌがラッコ皮を献上」のときからおよそ30年を経ている。藩が蝦夷地に交易の拠点をつくり、その出張先に交易船を派遣し、謁見の礼を行っている。東部のアイヌが松前に出向いて交易と謁見の礼をおこなう時代は終わった。アッケシでのはじまりは寛永年中にもとめられる。

松前船の交易

 「1643年日本東北部に於けるフリースの旅行記」という本は、この地方のいろんなことを伝えてくれる。例えば、松前の船がアッケシにきて、アイヌの社会にどんな商品を持ち込んでいたのだろうか。そんなことにも答えてくれている。フリースの旅行記によって、この地方の17世紀半ばの様子を探ってみることにしよう。オランダ船の船長は日本の船が入港していたので、商人についていって船の中の荷物を見た。
 荷物をあけてみると酒・米・衣服・煙草で、どれもアイヌとの交易品であった。毛皮やクジラの油を積みにきたといい、アイヌにわたす「鐶(わ)」も積んでいた。又、同船は勇留島・秋勇留島のアイヌから煙草を求められ、オランダ船があたえた「アラク酒」を「サッキー」といって喜んで飲んだともいう。船の荷物は藩側から持たされる商品のなかみをあらわし、アイヌの煙草と酒の要求は本州側の商品のひろがりを物語っている。厚岸湾は自然港湾としてすぐれていた。ここに根室や千島のアイヌたちが交易におとずれる。北海道東部の中心がここにあった。

クスリアイヌ、アッケシで交易

 クスリのアイヌはアッケシに交易にいっていたらしい。フリースの滞在中、クスリアイヌが厚岸湾を訪れた話がある。普通の船員のアイヌたちは毛皮をきており、頭分のアイヌの老人だけが色模様のついている日本服をきていたとある。クスリからアッケシにでかけてゆき、アッケシアイヌと交流していたこと。本州商品がはいってきていて、特に重要と見られるものは「頭分」とかかれた有力者の手にするところであった。寛永期のアッケシは東は択捉などから、西はクスリからもでかけてゆく交易地であった。アッケシの産物は海獣の毛皮、鷹の真羽などである。クスリアイヌもこれら産物をアッケシに持ち込み、本州から持ち込まれる日本服などを生活の中に取り入れていた。

商場知行制

 これまでに確かめることができたのは例えば3点あった。アッケシに交易船がきていた。クスリアイヌが交易にアッケシにでかけている。根室半島のあたりのアイヌの社会に本州の商品がゆきわたっている。
 アッケシにきていた交易船は藩主が送り込んだ交易船である。それはアッケシが藩主直領の交易場であったからである。シリキシナイ(尻岸内)、エトモ(絵靹=室蘭)、ロウサン(千歳川流域)、日本海岸のイワナイ(岩内)などが藩主専用の交易場であった。
 これに対し松前藩の家臣団のうち有力家臣にあたえた交易場がある。本州の藩では有力家臣に知行地をあたえる制度がある。松前藩では田のかわりに対アイヌ交易権の一部を、有力家臣にあたえる制度がしかれた。藩主のもっている対アイヌ交易権の一部をわけあたえたものである。交易を行うところを「商場(あきないば)」とよんだこともあって交易場を家臣にあたえるしくみを、「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」とする。このしくみはほぼ慶長年間からはじまり、寛文年間までには完成した。藩主直領地は遠隔地や大切な資源の漁場・猟場であることが多い。



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