蝦夷地東部の中心ーアッケシ


幕府の領地

 ここでは寛政11年(1798)から文化9年(1812)までの、いくつかの話題を取りあげる。蝦夷地が幕府政策の対象になった時代である。(1)寛政11年正月に浦河から知床までの地域と、その周りの島を試みに直轄地とした(仮直轄)。同年8月には箱館の西、知内川より東の地域までひろめた。(2)享和2年(1802)7月に東蝦夷地のすべてを「永久直轄地」とした。(3)文化4年(1807)3月松前和人地および蝦夷地のすべてを幕府領にした。松前氏は陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)に移された。直轄地の範囲はこれら3つの段階に拡大された。
 幕府は(1)さきの調査と2度にわたる交易で、新たな財源の可能性を見つけた。(2)外国の接近とアイヌの保護を、松前藩や商人の経営にまかせておけない。そこで蝦夷地を幕府領として支配し、漁業と対アイヌ民族の交易を直営にした。蝦夷地取締御用掛の羽太正養らが中心となって(1)幕府による産業の発展、(2)アイヌとの交易をただす、(3)択捉の中心にした警備、(4)産業・警備のため陸と海の交通路を整える、(5)蝦夷地経営の経費は幕府財政から支出するなど5つの基本となる政策をきめた。

江戸〜アッケシに直航路

 寛政11年3月24日、江戸の品川沖を1隻の船が出帆した。船の名は政徳丸。幕府がやとった船で、大きさは1400石(210トン)。江戸〜アッケシに新しい海の道を開く使命を持つ。漂流にもひとしい航海であった。蝦夷地の東部開発はこれによってすこぶる進む。その政徳丸。蝦夷地に近づくにつれ、霧の海をさまようことになる。6月22日にはクスリに上陸し乗組員は旅の疲れをいやしたとある。尻羽岬の沖は霧もふかいが、魚群も集まる。次の記事では、魚と霧を名物にするこの地方の様子がたくみに紹介されている。

タラ釣りを楽しむ

 (6月24日)厚岸湾の入口から1里ほどのところで、湾に入りにくいから沖に停泊することにした。
 (6月25日)霧がふかく地、山はさっぱり見えない。仁三郎(記録の著者)はたいくつのあまり、魚釣りをすることにした。船釘をまげてたくあん(澤庵=つけもの)を1寸5、6分(=4.5センチほど)にきって針につけた。この針を海底の様子をさぐるための糸縄に縛って海に8、9丈(=24〜27センチ)もおろして、たぐりあげたところ3尺(=約90センチ)のタラが釣れた。これを見ていた船の乗組員たちも、それぞれつり道具を持ち出し、釣り上げたタラを餌にして釣りはじめるとわずかの間に150〜160本を釣った。澤庵を餌にタラを釣るというのは大変珍しい。そんなことを話の種にしながら、釣り上げたタラを食べ、内臓を煎じて船で使う灯明の油をたくさんためることができた。相変わらず霧が深く、船を動かすことができない。
 (6月28日)同じように霧が深く地山が見えない。おまけに土用波(=台風にあたる強い風波)に船がゆれて、船中の鍋・釜がみだれとんで乗組員たちは仕事にならない、夜八ツ時(=午前2時ころ)になって、鯨が姿をみせてあちこちで汐をふきあげている。大きな魚のことゆえ船に近寄られたては船もこわれると、乗組員がかわるがわるに船べりや碇(いかり)をたたいて音を出し、夜のあけるまで鯨を追い払った。

アッケシに入港

 6月29日になって政徳丸はようやく厚岸に入港した。仁三郎はこの日のことを「翌廿九日の朝、雲霧(濃霧)もはれ西風にて帆を巻、ひる九ツ時頃(正午)アッケシへ着岸す」と、その著「北蝦談」に書いている。このあと仁三郎は秋までに厚岸に滞在する。「交易方」というから漁場で買付を行う仕事でアッケシに勤務した。

東海路構想

 江戸〜アッケシの航路を開いたのは、蝦夷地を経営する奉行所を箱館ではなくアッケシとする考えがあったとことにある。また、江戸〜三陸〜蝦夷地という航路をもうけて蝦夷地の産物を江戸に流入させる。蝦夷地を東北の農作物の移出先にする。産物を積み出し、本州からの商品を受け入れる港を、アッケシにしようと言うわけである。このような江戸、東北、蝦夷地を海路で結ぶ組み合わせを、「東海路構想」とよぶ。しかし、この8月に知内以東を幕府領にしたあたりで、アッケシに奉行所をおく計画はあらためられる。おもてむきは気候がふさはしくないという理由であった。アッケシは厚岸湾というすぐれた地形にめぐまれ、蝦夷地第一の湊といわれてはいた。しかし、蝦夷地の商品の流通の中心にふさわしい位置にあったのであろうか。



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