松浦武四郎の業績


松浦武四郎像

 かつての公民館前に、松浦武四郎の銅像がある。ただしくは「松浦武四郎蝦夷地探検像」と題する像。作者は日展無鑑査の中野五一氏。昭和33年に阿寒国立公園観光協会が有志の寄付をもとに建立。この年は武四郎が安政5年3月24日にクスリ場所を訪れてから、ちょうど100年目であった。碑文をよむと、武四郎が阿寒の地を調査し、景勝を紹介した功績をたたえ、「阿寒国立公園の父」と顕彰している。

松浦町の由来

 釧路市の鉄北地区に「松浦町」という町名がある。この町名がうまれたのは昭和7年で、それまでの西幣舞とよばれる町名の一部を改めた。命名の理由は釧路が東蝦夷地第一の都会になるという、武四郎の達見に敬意を表すためであった。発案したのは釧路市会議町の佐々木米太郎氏であったかとおもう。
 佐々木氏は郷土の偉人顕彰運動に熱心であった。武四郎の顕彰運動にものりだす。阿寒湖畔のボッケに詩碑を建てた。昭和7年、佐々木は釧路市町名地番改正委員の一人として武四郎の業績をどこかに残しておきたいと考えた。ちなみに「松浦」の地名は、道南の福島町にもある。こちらのほうは「松の育つ浦」という意味である。

武四郎の来訓

 武四郎はクスリ場所を三度訪れている。はじめは弘化2年(1845)で、会所にきたのは7月4日。知床までの太平洋岸の陸地調査が目的であって、帰路も会所に寄った。この年、はじめて蝦夷地に足を踏み入れた。松前藩からの妨害をかわしながら隠密としての私事旅行であった。
 2度目は安政3年(1856)。9月20日に会所に宿泊した。幕府雇を命じられ、幕府領となった蝦夷地を、松前藩から引継をうけるのに立会うためであった。根室から函館に向かう道すがらクスリ場所にきている。
 3度目は安政5年。武四郎には最後の蝦夷地調査となった。太平洋側の山川地理取調べ、新しい路線と戸口を調査するため、内陸をあるく。会所には3月22日から24日まで滞在し、大楽毛ー阿寒ー美幌ー網走ー斜里ー摩周湖をまわり、4月17日に会所にもどる。武四郎は6度の蝦夷地調査で、「戊午東西蝦夷山川地理取調西蝦夷山川地理取調日誌」62巻や蝦夷地を28枚にわけて描いた「東西蝦夷山川地理取調図」など有名な著者物を残した。武四郎研究家の秋葉實氏が調べられたところによれば、蝦夷地の滞在期間は延べ4年6ヵ月、調査の期間は20年10ヵ月になったということである。

北海道名の選定

 わが北海道の名付け親である。明治政府は、明治2年8月に蝦夷地を北海道と呼び改めることにした。政府は新しい名称の選定を、武四郎にゆだねた。この北海道の名称は、武四郎が提案した日高見道・北加伊道など6案から選ばれた。武四郎の雅号のひとつ「北海道人」とも一致する。武四郎の原案は「北加伊道」で蝦夷を「かい」とよむので、「加伊」に蝦夷の意味を残しておきたかったためとも言う。
 武四郎はこの年6月蝦夷地開拓御用掛を、8月開拓判官を拝命する。開拓使はこの時期、全道を11国、86郡にわけたが、その名称の選定に武四郎の意見をもとめている。

行政区域と道路

 武四郎は幕府領時代の各「場所」の境や、道路の路線の選定にも意見を述べている。今日の行政区域は市町村の合併があって、変化したところが多い。しかし武四郎は行政区域の原案をまとめるにあたって、何よりアイヌの生活圏を尊重することにこだわりつづけていたという。
 また、「新道見立書」というのがあって、石狩−勇払、石狩−十勝、釧路−網走など蝦夷地の縦断道路建設の必要を強調した。開拓と警備のための連絡路である。このように、幕末からの蝦夷地調査の成果が、北海道の近代への出発に力を発揮したのである。

蝦夷地の地理調査

 アイヌ語地名の採取、地域の沿革や主要事件の聞取りと記録化、コタンの人別と帰化(名前・頭髪・衣服・種痘など日本の風俗にあらためている状況)調査は特筆すべきものである。釧路にきたときの調査は、1回目が地名の採取と事件の記録、2度目は新しい道路の路線調査、最後はコタンの人別と帰化。それぞれか調査のテーマであった。地形・水系・産物・地名・人別さらに植物、動物だけでなく蝦夷地社会の実状にも深くつうじ、アイヌ民族の滅亡の危機を訴えることになる。初航・再航・三航蝦夷日誌の原稿を起こし、「蝦夷大概図」もあらわした。蝦夷地理解のうえで重要な著作であったが、大概図のような図面が、世にでたことは松前藩をおおいに刺激した。松前藩の妨害は内情が広く知られることを警戒するところに発している。

膨大な著作

 武四郎の著作は日誌など186巻、手控えとよばれる野張38冊といわれている。蝦夷地を紹介するための啓発のための「久摺日誌」、「納沙布日誌」や「東蝦夷日誌」。幕府雇いとしてまとめた調査報告書にあたる「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」。興味と関心がつよく、よくものごとを知っていた武四郎にふさわしく、著作の範囲もひろく量もすこぶる多い。これらのデータを集めることができた背景にアイヌの協力と情報の提供があった。そのことを最もよく知っていたのは武四郎自信である。
 「東西蝦夷山川地理取調図」のように、すでに使われなくなって、確かめようのない地名を実に精密に書き残したものもある。地域の文化財として地名が保存の対象となっている。この点でも武四郎の業績に対する評価は高い。




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