武四郎の紀行文と釧路


富国繁殖の一大域

 武四郎にとって、十勝・釧路は蝦夷地の中で、大変気に入ったところであったらしい。「東蝦夷日誌」の記事を私なりに要約してみよう。
 何と言っても、交通の要所である。十勝川と阿寒川があるが、十勝川は石狩、沙流川を経て石狩・日高に、阿寒川は釧路川とともに斜里・網走と根室につながる道だと指摘する。鉱物と水産資源に恵まれ、物産の増産の可能性が大きいとする。白糠の石炭、阿寒の硫黄、シシャモ、鮫まで産物が豊富である。
 植林に適した肥沃な地である。松・椴(とど)、樺(かば)を産するばかりか、形根別のあたりではハゼ、ウルシ、コウゾ、ミツマタなどの特殊林産物、山間部でキリ、スギ、ヒノキを育てるとよいとも書いてある。
 当時の釧路といえば、漁業・交易・交通の中心であったが、鉱産物と林産物の豊富な点を強調し、「富国繁殖の一大域たらん」と確信していた(「東蝦夷日誌」)。ハゼからヒノキにいたっては、まゆつばものといってよい。また、足寄・常呂・網走・釧路の川が、クモの糸のようにからみあっているが、船を通わせ、人家がたてこみ、土地が開けたなら、どれほどの良田が得られようかとも書いている。釧路を含め、道東の開発の可能性に、実に大きすぎるほどの期待を込めていた。

島 義男への手紙

 佐賀藩の島 義勇と犬塚某にあてた手紙のなかで、あなたがたが藩にかえって開墾の地としてどこがよいかと聞かれたら、「東場所クスリ恐らくは適正せんと思う」と答えるように教えている。
 海にニシン・イワシ・タラ・サケ・マス・シシャモ・コンブのほか雑魚がたくさん。人口は1、309人でみんな川べりに住む。石炭・硫黄・巨木がおおく陽当たりもよくて暖かい。まだ他の藩から開発を願い出るものがない。君のところのような大きな藩が開発にあたってくれたら、「これ皇国の幸い、これに過ぎざる」という。寿都の運上屋で島 義勇あてに書いた手紙のなかの記事である。

働き手を欠く

武四郎にとって3度目のクスリ場所訪問となった安政5年の3月、阿寒方面の調査を行う。この成果は「久摺日誌」となって、おおやけにされた。庶路川をさかのぼり、これより舌辛川と阿寒川の合流点に出ている。さらに2里。5軒のアイヌの人家があるのが老婆の家が2軒。布伏内では4軒のうち3軒が老婆の家。子供はまだ浜に行ったことがなく、武四郎がつれていった馬を見ておおいに驚く。この2つのコタンは働き手の男が見あたらない。漁場にともなわれていっているからだ。男の働き手はさしずめ「単身赴任」。婦女子と老婆ばかりが残されたコタンは「過疎化」と「高齢化社会」が進んでいる。美幌や活汲(かつくみ)などでも同じ場面にであっている。「すべて山住みには80余才の者は多く有り」と記している。
 どうしてコタンがかわってしまったのだろうか。それはこの地域にとって、いわば産業の構造変化がおきたわけだ。アイヌの産物を交易で入手していただけでは不足になったと書いた。漁場では本州からの出稼ぎ者もほしいが、アイヌたちは安い労働力の供給源に見える。山住みのアイヌが浜の漁場にかりだされたので、山のコタンは労働人口を送り出してしまったからにほからならない。山で交易品をあつめていたアイヌは漁場で労働にあたる。

会所台所の図(大内余庵『東蝦夷夜話』掲載図)


コタンの嫁不足

 つぎは標茶のあたりで伝え聞いたアイヌたちの縁組のこと。標茶から網走には、氷雪のうえをゆくと3日あまりでゆける。だからクスリ場所のうちでもこのあたりのアイヌたちは釧路川口のアイヌのみならず、斜里や網走のアイヌと婚姻することもごく普通に行われていた。
 ところが、このような請負い場所以外のアイヌたちが、場所の境をこえて通婚することは、松前藩によってかたく禁じられていたのである。なぜなら商人にとっては、アイヌ人口が減ってしまう。請負い場所の中のアイヌが、他の場所に移住することをかたく禁止していたわけである。しばしば人口の調査をおこなって、働き手が他のところに行っていないか厳重に監視していた。
 武四郎にいわせると、これは商人たちが「眼前の利」にくらみて、おおくの弊害をうんでるというのである。孤独のもの多く、女の多いコタンと男ばかりのコタンにわかれてしまっている。女ばかりのところに婿を、男ばかりのところには嫁を媒酌して、一家を相続させねば、これがアイヌ滅亡の原因になると指摘する。「20年と過ぎなば当初には夷人の種は絶るなるべし」とうったえ、他の場所との間で縁組みを禁ずるのは、この地の大きな欠点であるとしている。アイヌ滅亡の危機を感じつつ、みまわりに来る役人は、口をひらけばアイヌ保護だというが、どんな世話をしているのかとなげかわしく思うのであった。

自然コタンに崩壊の危機

 コタンのアイヌが減少したり移動している様子は、武四郎のいろんな資料の中でうったえられていることのひとつである。アイヌの移動にはふたつのパターンがあった。まず浜から浜への移動である。仙鳳趾・別舎無・釧路・白糠・尺別などの大きなコタンに移っている。それまでアイヌの住んでいたことが知られていながら、調査の時にいなくなってしまって、「空家」となっているところの転出先はこれらの大集落であって、漁業・交通のうえで大事な役割をもつ地とされている。
 ついで、内陸から海浜に向かって移るパターンである。山住みのものが海辺にくるのがこれにあたる。その多くは漁場や交通のしごとにあたるためであった。山住みのアイヌたちにとってはこのむとこのまざるとにかかわらず、新たな仕事にそってコタンをあとにすることになった。そのあたりの流れを、その頃のコタンの様子を含めて、「竹四郎廻浦日記」から抜き出してみる。アイヌは和人の漁場に集められ、人のいなくってしまったコタンがだんだん増加して、自然コタンは次第に崩壊していった。




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