白糠・石炭岬の採炭事業


オソツナイの採炭

 オソツナイは獺津内とも書き、釧路市益浦(ますうら)のあたりをさす。益浦から桂恋にゆくあいだの岩見ヶ浜では、地層と地層の間にはさまった露頭炭層を観察することができる。
 「開拓使事業報告」という記録によると、安政3年に幕府が初めて獺津内の石炭をほりはじめたが、まもなくやめたとある。まだ「石炭」という言葉がなく、「媒炭(ばいたん)」と書かれてある。
 その後、明治期になって工部省が佐賀藩の技術者によって、明治4年9月から再開した。石炭の品位、すなわち炭質は白糠よりもすぐれた岩内炭とほとんど違いがない。しかし、鉱脈がおよそ10度傾きながら海中にのびていっているので、一大ポンプがなければ石炭を掘るのが難しいとの見解を示している。この坑に資金をかけるより岩内炭を堀り続けるほうがはるかに益ありというわけである。箱館開港にともないオソツナイの石炭に手をつけながら、はやばやとあきらめた理由も、このあたりにあったらしい。

箱館開港と石炭採掘

 北海道で石炭を掘り始めた、その始まりが釧路地方からであった。どうしてオソツナイの石炭を掘ることになったのか。ひとつは箱館にくる外国船舶の要望に応じるため、いっぽうでは箱館奉行そのものが鉱物の精製のために石炭による燃料確保を求めていたことにある。
 外国船へは薪水・食料・その他の欠乏品を、できる限り供給しなければならない。アメリカとの条約には、はじめ箱館で石炭を供給するときめはなかった。しかしそれぞれの国からの要求はつよく、国禁の牛肉を含めて豚・鶏・馬鈴薯などとともに石炭を供給することにした。これをうけて石炭を採掘することになったものである。
 箱館奉行は蝦夷地に5、6ヵ所の石炭山をみつけていた。その品位の鑑定をイギリスの技術者に頼んだところ、シラヌカのシリエトの石炭が有望であるとの意見であった。
 安政4年壬5月、栗原善八に採取を命じ、栗原は江戸から採炭夫を数名と人夫をつれてシラヌカにやってきた。かくて、これまで試みたことのなかった蝦夷地の石炭採掘がはじまったのである。

シラヌカ炭の採掘

 ヲソツナイの炭をほりはじめた頃、シラヌカのシリエトでも石炭を掘り始めた。
 坑口は2ヵ所である。山腹に6間(およそ10.8メートル)位の入り口をきって、坑道の長さは入口から10間(およそ18メートル)。それより坑道はさらに左右にのびている。これより南に12間よったところにもう1ヵ所。坑道は材木で支えるなど、いちおう本格的だが規模はちいさい。2つの坑口から出炭量は3、000貫。以上は森 一馬の日記に書かれている中身である。森は黒色にて色といい艶といいもうしぶんないと、塊のひとつを江戸の土産にしている。「新撰北海道史」では安政4年6月から次の5年4月までの採掘量を5、998石8斗と計算している。いまふうにあらわせば8、656.8トン、貫では230、845貫にあたる。

採炭方法

 石炭を掘る方法や作業の進め方では九州の筑豊の技術によっていたらしい。松浦武四郎は「その稼ぎ方、九州あたりの堀りかたと異なることなし」と書いている。人夫は江戸からつれてきたものであったが、これははじめの頃の話。文久元年(1861)からは箱館で罪をおかしたもの、江戸から流刑人としておくりこまれたもの、無宿の者らをつかった。ほかにアイヌも雇っており、仕事になれないためたいそう恐がっていたともいう。石炭を掘るのは「片ツル」「唐鍬(とうぐわ)」、運ぶのに「モッコ」が使われている。

白糠石炭窟(成石 修図)


岩内にうつる

 シラヌカの採炭は、元治元年(1864)に中止されることになり、それからは岩内の茅沼で採炭することになった。採炭をはじめてより7年あとのことである。すでに安政4年の時に森 一馬は岩内へ移転するうわさを聞いていた。採炭をとりやめたわけは、いくつかあげられている。(1)もともと品質がよくなかった。(2)シラヌカ〜箱館間200マイルの海路をゆすられては、粉炭にかわってしまうので目べりを生じている。(3)シラヌカ〜箱館間より岩内〜箱館間のほうが輸送に恵まれている。つまるところは外国船の評判がよほど悪かったのであろう。
 〃岩内場所で石炭を発見〃の報に、担当者の村垣淡路守はさっそく調査にでかけた(安政4年)。文久2年ここの石炭を南部藩の大島総左衛門に分析を頼んだ。成績は良かったので、元治元年に現地調査を命じ、大島の開坑策−坑内に留木をすれば、採炭も難しくないとの案をいれ茅沼鉱の採炭を決め、坑夫や人夫を移したといわれている。

動力源の確保

 ここで北海道ではじめての採炭のもつ意義についてふれておきたい。
 その(1)はこの石炭は汽船の燃料として活用されたもので、動力源であった点にある。薪にかわる燃料として石炭を使うことは、すでに瀬戸内海の製塩地では18世紀の終わりからはじまっていた。周防や三田尻などの塩田地帯では、塩水を蒸溜する燃料に石炭をもちいていたのである。ところがシラヌカの採炭は汽船の動力源であった。常磐炭田が下田港に入港する外国船に石炭を供給する目的で開かれたものだし、蝦夷地のそれは箱館入港の外国船に提供するためであった。燃料から動力源に。これは北海道ではじめての石炭採掘ということにとどまらず、日本の石炭採掘のうえで動力源への転換をうながす出発点であった。

〃囚人〃労働にたよる

 その(2)は罪人、流刑人、無宿者など囚人労働による開発が進められたことである。幕府に蝦夷地を直轄するにあたり、罪人、穢多(えた)など施政者からみた「厄介者」を労働力にすえるプランがあって、炭鉱はそれにふさわしいところであった。シラヌカに罪人たちがはいったことはふれたが、岩内のほうはもっと徹底していた。わざわざ臼別(久遠郡大成町)というところに人足寄場(にんそくよせば)をつくった(これはのち奥尻島にうつされる)。シラヌカからまわされた囚人や、函館・江戸の囚人を集めて炭鉱の労働力をまかなったのである。
 人足寄場には江戸からきた18名を含む40〜50名がいたといわれる。江戸および箱館の受刑者対策と蝦夷地の開発を結びつけるこころみは、江戸期の終わり頃にはじまり、北海道開拓に受け継がれてゆく。

シラヌカ図(『東蝦夷図巻』掲載図)


官業事業

 その(3)は釧路炭田の石炭採掘のあゆみの中でどう位置づけられるかである。幕府による石炭採掘は官営事業であり、みずから消費するのではなく流通商品として売買されるものであった。炭田の開発は明治20年になって、硫黄の製錬の燃料、輸送の汽車・汽船の動力源として産業資本により進められた。外国船への供給もあったが、国内への供給をねらいとするものにかわる。つまり、釧路炭田の石炭採掘の始まりではあるけれども、これをもって釧路炭田の石炭開発のモデルとなるものではなく、のちの石炭採掘と切り放して考えておくべきものである。

白糠・石炭岬

 「シリエト」の地名は山田秀三氏の解釈にしたがえば、「シリ・エトゥ=岬モ石炭岬 地の・鼻」の意となる。国道38号線の立ちはだかるように突き出した岬がかつてのシリエトである。白糠の町の中心がもうすぐそこにという位置にある。バス停には「石炭岬」とあって、これをたよりにしてゆくとよくわかる。よくみると岩肌が所々にのぞいていて、人の手を加えたあとがかすかに分かる。
 ペルリ浦賀にきたる。日米和親条約、箱館開港、外国船の函館入港、汽船に供給する石炭の確保、蝦夷地ではじめての官営の石炭採掘。
 私達の国の、日本の歴史のそんな大きなうねりが、この岬を取り込んでいたことがあった。戦後の昭和21年。この岬の鉱脈を採炭する新白糠炭鉱が営業をはじめた。ふたたび石炭資源がひかりをあびたのである。「シリエト」の地名が、こうしたいきさつを経て石炭岬というのは通称地名であって、行政の字(あざ)は「石炭崎」というのだそうである。




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