■様似町の歴史■
北海道の中でも古い歴史を有する様似町。ここでは、様似町の文化財を紹介します。
様似町の文化財めぐり
■ 蝦夷三官寺等じゅ院
江戸幕府は寛政11年(1799年)東蝦夷地を直轄地にし、蝦夷地取締りと警護のため幕吏、会所役人、南部津軽藩士など、多くの人々が蝦夷地入りした。寒冷地で死者も出たが、弔う寺院がないため幕府は享和3年(1803年)蝦夷三官寺(様似の等@院、有珠の善光寺、厚岸の国泰寺)の建立を決定し、文化3年(1806年)にオコタヌシ(今の栄町)に等@院が完成しました。護摩堂建立は文化4年第1世住職秀暁の請願により、第2世住職慈順代の文化8年7月に竣工されました。その後、オコタヌシが熊の害や川の決壊で、文政4年(1821年)に今の本町2丁目(現在の様似郵便局付近)に移転されました。以来、明治維新後に寺領手当てなどが支給停止により一時廃寺の悲運にあったが、明治32年(1899年)等D院が再興されました。
■ 等じゅ院古文書
古文書は初代住職秀暁の選任(享和3年)から11世住職徳弁(明治9年)に至るまでの住職記(日記)13冊と什物帳1冊、過去帳(霊簿)1冊、書付(寺禄逓減法通知書)1通の16点と蝦夷三官寺が所蔵する経典、仏具などの歴史資料が町指定の文化財から平成17年3月18日に国の重要文化財に指定されました。創世記からの一連文書で、住職記は最古の古文書として価値ある記録書であります。
■ 様似山道
様似山道は、日高耶馬溪と呼ばれる断崖上にわたって続く山道で、1799年に北方警備のために江戸幕府によって開削され、北海道における最初の国道ともいえるものですが、同時に非常に多種類の植物の分布限界(東限、西限、南限、北限)や隔離分布種、固有種などを持ち、800種類を超す高等植物が確認されて「植物のるつぼ」とも呼ばれる日高南部地域を通り、しかもアポイ岳の山麓部にあたっているだけに、植物調査ルートととしても大変重要な役割を果たしてきました。中でも明治17年の宮部博士の採集旅行は、この山道中で新種サマニカラマツが発見され、それが契機となって日高南部ひいてはアポイ岳への植物学上の関心が高まり、解明が進んでいったという点では意義深いものがあります。
■ 様似会所
江戸時代後期、様似は「シャマニ場所」と呼ばれており、この場所というのは、北海道を支配していた松前藩のことで、寛政11年(1799年)様似は松前藩から幕府の支配に変わり、それまで場所の中心だった「運上屋(所)」が「会所」と改められました。会所には支配人をはじめ、多くの役人がおり、地方管下の行政視察が主な仕事であったが、備金の徴発がおもな目的であった。日高地方でも当時会所のあるまちは大きなまちであったと考えられる。会所の建立がなされたのは、現在の会所町地区で、そのなごりが地名として残っています。
■ 観音山と石像観音
明治28年(1895)に等@院中興の祖である塚田純田が33観世音(石像)を安置して以来「観音山」と呼ばれ、そこにはカシワの巨木があり「神木」として崇敬した。このカシワの木は、北海道の名木として指定されている。また、海抜83メートルの観音山公園からは様似の町並みやエンルム岬などが、まるで箱庭のように見えることから、景勝の地としての人気も高く、展望台も設置されています。全山広葉樹に覆われ、林床は4月下旬にアズマイチゲ、エゾエンゴサク、カタクリ、5月にはオオバナノエンレイソウの群落のお花畑は見事です。
■ 和助地蔵尊 昭和44年3月1日様似町指定文化財
寛政11年(1799年)様似山道開削工事最盛期の頃、南部から一人の若者がホロマンベツにやって来て、山道開削を手伝ったり、旅人の便利を図ったり、また、地域の雑事にも自ら進んで協力し、その人柄や献身的に協力する姿は地域人々から絶大の信頼を寄せられていました。その人が「斎藤和助」であり、数々の功績を残し、91歳で天寿を全うしたが、没後、その遺徳を讃え、霊を慰めるため、様似場所請負人・近江屋藤重郎と幌泉場所請負人・福島屋善四郎らが和助地蔵として建立しました。現在、幌満地区の住民により祭られています。
■ 南無仏太子像(聖徳太子2歳像) 昭和57年10月10日様似町指定文化財
この像は太子が2歳の春、釈迦涅槃の日に東方に向かって合掌されたとき、その掌中から釈尊の左眼の舎利が現出したという古今録抄の説話から造顕されたという。仏像は目、口、鼻が中央部に集約され、緋の袴が左右腰の部分で大きく開いている異例なもので、南無仏太子彫刻史上貴重な作例であり、道内における室町彫刻の太子象はこれが最初の発見といわれている。


