「クスリ」の勢力圏


地名の記録

 フリースらは十勝沖とおぼしきところ、おもうにトカチのアイヌの船にであい地名をききだしている。自分たちの住むところを Tocaptie と教えてくれた。さらに、川のそそぐ湾を Goustsiaer 、北東の方向にCyrarca Goutsiote ということであった。 Tocaptie は十勝、 Goustsiaer は釧路川、Cyrarca は白糠、 Goutsiote は釧路をさすと考えられる。この記録によれば厚岸湾は Bay de Goe de Hoop、グー・デ・ホープ=希望湾と名ずけている。そこで、地名にあらわれたアイヌの勢力関係をみてみることにする。

2分される勢力圏

 釧路地方のアイヌの勢力圏は2つのグループに分かれていたらしい。一つは十勝・厚内・白糠のグループ、ほかは釧路・昆布森・厚岸のグループである。「トカプチ(十勝)、マツナイ(厚内)、シラカル(白糠)、コンツヲリ(昆布森)、及びグルリン(釧路)等を近く見たり。但し、其コンツヲリ、及びグルリンの2村はトカプチ、マツナイ、シラカルの3村と相対して在り。」とある。

シラヌカとの対立

 ついで、フリースらは「コンツヲリ(昆布森)、アッケスイ(厚岸)、の土人我船中の人に語って日く。此両村(コンツヲリ、アッケスイ)の人々の他総州の土人とは、自ら仇敵の如くにて共に交わることなし」と書いている。これはアッケシのアイヌから聞いたこととして、書いたものだ。2つの勢力圏があり、クスリはアッケシ、コンブモリのアイヌとグループを組みシラヌカと鋭く対立していた。オランダ人は金や銀を求めているのはいうまでもない。アッケシの長老はそれを知りつつ、次のようにも答える。「トカチは砂金もでるし、シラヌカでは銀が出る。アッケシはクッチャロとは仲が良いが、トカプチ、シラヌカとは非常に仲が悪いから、そこへは案内できない」。つまり、金銀があるとは教えるけれどもオランダ人の案内を拒否するのである。

シラヌカとトカチのアイヌ

 白糠を流れる茶路川。この川に沿って一般国道392号線が白糠と十勝支庁管内の本別を結んでいる。この路線はしだいに整備が進んでいる。どうもこの尾根ごえのみちはトカチ・シラヌカのアイヌ交流の道であったらしい。シラヌカから銀がでたのかはさだかではないが、トカチは日高地方とともに砂金の産地で知られていた。トカチ・アツナイ・シラヌカのグループが、砂金を軸に松前と交易があってもおかしくない。

クスリとシラヌカの境

 この時期、クスリとシラヌカのアイヌが対立していたことを知る。この2つのグループの接点はどこか。大楽毛川ということになる。この川の流れは一部は現在も釧路市と白糠町の行政区域の境界として残っている。しかし、かつては海に注いでいたこの川の川口は、現在、阿寒川の川口にかわってしまった。クスリとシラヌカのアイヌの生活圏の接点を大楽毛川とする手がかりはなにか。のちのことだが、亨和2年(1802)にそれぞれふたつに分かれ独立していた、「クスリ」場所と「シラヌカ」場所を統合したことがある。このとき2つの地域の境が大楽毛川であった。シラヌカの西の境は直別川、クスリの東は釧路町・昆布森の西を流れるアチッロベツ川から西が勢力圏の範囲である。今日の市町村の行政区域は、その後、合併・分離などで分かったところもある。しかし、その基礎をなすのは、かつてのアイヌの生活圏や勢力圏によるものが多い。



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