米屋の経営における漁場の状況


漁場の産物

 クスリ場所の産物は、文政4年のクスリ場所引継ぎ資料によると次のとうりである。干物ではコンブ12万3000貫、タラ5400貫、布海苔7000貫、ヒラメ90貫、塩蔵物ではサケ276石、マス56石、筋子(サケ魚卵)650貫、それに雑魚〆粕7700貫ということになっている。これでははなはだだわかりにくい。1石=40貫=150キログラムで換算してみると、約14万貫、3900石で、ほぼ600屯に相当する。
 これらの産物を漁獲する漁場のうち、サケ漁場がこれまでの河川から海岸部に移っていることである。アイヌたちが川の上流でサケ漁をいとなんでいた漁業方法にたいし、本州出稼ぎ者の漁法は海岸で捕獲する漁業が困難とされた場所にも、漁場が開設されることになったのは言うまでもない。
 天保11年7月13日に、釧路町の尻羽岬に近い別尺泊(べっしゃくとまり)の漁業小屋で災害が発生した。この漁業小屋には松前の泊川町からきていた「番屋守 藤右衛門」と南部・宮古の「船頭 辰太郎」がつめていた。宮古には津軽石川というサケの遡上河川がある。サケの本場の技術者が出稼ぎし、これまで困難とされていた場所にもサケの漁場を開くことができた。別尺泊は厚岸湾の湾口にあり、尾幌川や別寒辺牛川にのぼるサケの通路になっている。そこをねらって漁場を設定した。この様に海で川にのぼるサケを漁獲する漁法の一般化は、河川でサケ漁をいとなみ飯料としているアイヌたちにとっては、大きな打撃となった。

産物の交易

 請負人にとっては、漁場の漁獲物とともにアイヌのから生産物を購入したり本州側の商品と交易する仕事があった。アイヌの生産物は3種類あって、ひとつは漁獲物である。ニシン・タラ・カスベ・サケ・コンブなどのなま物、干製品、魚油として買い入れる。その二は狩猟物で、クマ・ワシ・キツネ・鹿などの陸に住む獣類と海獣類の皮革、内蔵、鷲羽などがある。その三は独自の加工品や採集物で、アツシ・キナ莚・椎茸などである。これに対し商人側より米・酒・煙草、布類、マキリ・タシロ・針・鍋などの鉄製品、椀・盃・桶などの漆器類がもたされた。
 本州側の商品を手に入れるためには、かなり多くの量を用意しなければならない。商人とアイヌの取引について問われていることの一つは、アイヌにとってきわめて不利とみられる交易比率のことであった。

アイヌの雇用賃金

 もう1つ、アイヌを雇用したときの標準賃金の報告書がある。雇用の業種は(1)会所や番屋の台所にやとわれる者、(2)杣・鍛冶・木挽・米搗などの技術提供者、(3)漁場に雇われる「漁方」従事者、(4)「川渡守」、「馬牽(うまひき)」の交通施設従事者に大別される。最も高給なのは「大工手伝杣夷人」と報告書に書かれている者で、一ヶ月2貫16文とある。清酒でいえば11本、玄米にすれば3斗6升分に相当する。「漁方」従事者は1貫344文から900文とある。こちらは清酒でいえば7本、米なら2斗4升で36キログラムに相当する。こんにち標準米10キログラムが3、500円ほどとすると、高くみても12、300余円の賃金は彼らの暮らしにいかほど寄与したものであろうか。他方では蝦夷地生産について高い輸送費と大変な危険をおかして本州に輸送しても、なお利益が実際にあったのは、蝦夷地における商品の生産コストがまことに低廉であったためとされている。



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