武四郎小伝


武四郎の生家

 理解に必要なかぎりで、小伝を紹介する。伊勢国一志郡須川村というところで文政元年(1818)にうまれた。現在の三重県一志郡三雲村字小野江というところにあり、津市と松阪市の中間、雲出川の南岸にあたる。
 武四郎は松浦家の四男坊で末っ子。残した記録類に、松浦弘や竹四郎とかいているものもある。竹四郎は幼名で40才くらいまで、この名を用いている。ちなみに、多気志楼は雅号、柳湖というのも雅号である。北海道人・雲津という雅号も用いている。

長崎で蝦夷地に関心

 末っ子という環境もあるが、16才で実家をあとに江戸へでた。さらに天保8年(1837)の20才の時、中国地方から九州にわたるが、これより6年間は長崎を中心に過ごした。蝦夷地に関心をよせるようになったのは、外国との接点をもつ長崎で、蝦夷地の形勢と北方探査の緊急性を、耳にしたことにある。朝鮮にわたろうと試みたこともあったが、外国との情報の多い長崎で見聞したのは、北の蝦夷地が人を求めているとの実感であった。とりわけ親しくしていた、津川蝶園が力説するのに心動いたと言われている。

隠密の調査

 弘化元年(1844)に鰺ヶ沢まできて蝦夷地にわたろうとした。松前藩の取締りが厳重で、渡海をあきらめ東北をまわって江戸に戻った。弘化2年三廐から江差に渡って最初の蝦夷地調査が始まる。幕府の役人はあまたきているが、海岸べりばかり歩き、陸地を調べたものはいない。山脈・川筋、人情・産物をきわめ、国の利益に役立てたい。そんな志をもって、東蝦夷地の旅にでた。
 江差より松前、箱館にはいり、いよいよ蝦夷地への出発である。箱館の商人・加賀屋孫兵衛の手代の名目で蝦夷地をまわった。松前藩は他国からの来訪を厳しく制限したので、この政策をかいくぐるためである。藩は蝦夷地の商品流通の独占と、内情が外にもれるのを防ぐため、旅人への調べは厳しい。身分を偽っての隠密の調査であった。
 この旅で、クスリ・アッケシ・ネモロからシレトコまで足跡をしるす。シレトコでは、「勢州一志郡雲出松浦武四郎」と標柱を建てた。
 翌、弘化3年には樺太に(第2回)、嘉永3年には国後、択捉、色丹を調査した(第3回)。第2回の樺太の調査の帰り道に、宗谷〜知床間のオホーツク海岸を調査しており、3回の調査を通じ、ともかく蝦夷地を一巡したことになる。アイヌ語にも不自由しなくなった。

水戸藩の支援

 武四郎には篆刻といって、石などに文字を彫る印刻の技術がある。各地を訪れ、人脈を築くきっかけとなり、また生活を支えた。一夜に百篇の詩を吟じるあいだに百印を彫ったという話もある。
 水戸藩士・会沢正志斉や藤田東湖らとの接触もあった。かねて水戸藩では松前・蝦夷地の情報収集を進めていた。貞享末年(1687)に藩主・徳川光圀が快風丸という船を派遣して、石狩川のあたりを調査したほど熱心であった。蝦夷地調査ということでは水戸藩の動きとも、一脈通じるところがあった。嘉永元年(1848)には藩主・水戸烈公から「いと有り難き仰せごと蒙りたり」との記事も自叙伝にある。武四郎が松前藩の妨害にあいながら、蝦夷地についておもいきった意見を述べることができたのは、水戸藩のうしろだてがあったからだとの意見もある。

幕府雇で地理道路調査へ

 武四郎は安政3年の正月にあたり、「今年は生きたる心地になりて」と手記に書いた。隠密の旅を続けた武四郎に、晴れて幕府雇いの身分と応分の手当を得ての公務出張の道が開けたのである。
 幕府雇の身で蝦夷地を松前藩から幕府へ引き継ぐのに立ち会う(安政3年)。調査の目的は樺太と蝦夷地の山川、集落、漁場、鉱物、植物、動物などの調査と、国防の見地から新しい道を開くべき土地を選んだ(安政4、5年)。明治政府のもとで、武四郎は蝦夷地開拓御用掛(明治2年6月)を、そして開拓使判官を拝命する(8月)。松前藩の蝦夷地政策が無策に等しいと考えていたから、幕府や明治政府が支配することに大きな期待をよせていた。




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