「近世蝦夷人物誌」のクスリアイヌ達


近世蝦夷人物誌

 武四郎のアイヌ観を示す著作に「近世蝦夷人物誌」(以下「人物誌」)というのがある。原稿の一部は安政4年(1857)の暮れにはできあがり箱館奉行に提出された。ところが出版のゆるしがでないまま、明治45年になってはじめて活字になったといういきさつをもっている。奉行所としでは行政の参考にはなっても、おおやけにされることは好ましいことではなかったためであろう。
 「人物誌」には豪勇・義徒・貞節など28の項目にわけられた99人のアイヌたちが登場する。一般に野蛮・貧窮・乱暴などの偏見がつよくあった。これにたいし武四郎は、アイヌの中にはむしろ優れた能力を持ち、貞節や孝行の徳をそなえ、まわりのアイヌたちの人望もあつく、幕府や藩の方針にもきちんと服している者が多いのだとつたえている。
 そこでは、過労と環境の変化、天然痘や梅毒などの伝染病で体を痛めた者、一家の働き手をつれさられて老人・子供・不具者だけが貧しいその日暮らしをしいられている者、年頃の男女がいなくなって人口や世帯の少なくなってしまった村。アイヌの悲惨な生活と深刻なコタンの様子がきめ細かく紹介されている。

孝行・コトン

 コトンは仙鳳趾の土産取(みやげとり−儀式のとき土産を賜る者として任命された役つきのアイヌ)の息子である。性格は素直であるが勇気も十分で、ひとりぼっちの者やひとりみの者をいたわる心が深かった。とりわけたったひとりの父親を大事にする様子は格別であった。一杯の酒、ひとにぎりの飯たりとも父に見せないうちに食べてしまうことはなかった。また食事の時に3人の子が騒がしくするので子供を外につれだし、静かなところで父親に食べてもらい、そのあと子供に食事をとらせるほどであった。3人目の子が生まれることになったとき、さらに子が大きくなったのでは親を大切にできないかと考え、誰かに養子にやろうとしたので爺がやっといとどまらせて手元で育てることにした。自らの子を捨ててまで親孝行をしようとしたので、厚岸の役人の喜多野省吾は大変感激してこれをほめたということである。

躄のヲシルシ

 つぎは「いざり」という歩行困難のハンディがあるが、銛(もり)・槍(やり)のつかいかた、弓矢の引き方にすぐれた青年の紹介である。ヲシルシは釧路川の川口に住んでいて25才。一歩足して歩くことはできないが、川や海を泳ぎまわりねらった獲物ははずすことがない。海底の岩にひっかかった碇をはずすために、どんな深いところにももぐって、たちまちはずしてくれる。体が不具なるにしたがい芸が熟したのかとおもう。さらに、ひとりイイツカという目の不自由な者がいた。子供の頃から目が見えなくなったが、釣りが好きで常人の倍の成果をものにする。嵐の予想や地震の予知にすぐれ、船の出発や漁の模様ながめには、この者のいうことにみんなが従う。それほど優れた能力をもっていた。

酋長メンカクシ

 彼はクスリの脇乙名の職にある。「酋長」といい「脇乙名」といい幕府や松前藩のほうで命名したもので、アイヌ社会にあったものではない。東西蝦夷地にならびなき名門の家柄である。メンカクシの親はアカン・クスリ・マウシ・ニシベツを狩猟の範囲におさめ、生涯にしとめた熊は千頭にのぼる豪勇であった。子のメンカクシもまた親に劣らぬ強者である。アバシリ・シャリ・ネモロの山で、5人のアイヌを食い殺したので、これらの地方のアイヌたちは仇打ちをしようと、その命をねらっていた。そうはさせじと猟場をまわっているうちに、木の梢より一頭の大熊があらわれメンカクシに襲いかかってきた。左の手に山刀、右の手を熊のノドにさしこみ、舌の根を握りしめて抜いたから熊はたまらない。後ろにもんどりうってたおれたという。これほどの狩りにすぐれた、なみはずれた度胸と力量のある人物がいたという話である。

渡し守の市松

 「渡し守」は川の渡しの船頭である。シラヌカのヲンヘツサシという人の子でその頃50才になっていた。自らをイチマツと名のっていたが、日本風に改名したため「市松」となった。アイヌの仲間たちはイチマツを「ニシパボウ」とよんで尊敬した。そのわけはかれが貴人のこどもなりというところにあった。幕府直轄の時にクスリ場所勤務となった役人の落胤とのうわさがあった。
 この市松、弓や矢、馬使いがたくみで、片仮名を書く上、熊を捕らせれば年に2、3頭を下ることはない。その熟練ぶりは東西の場所第一といわれていた。畑もひらきだいこん・あわ・ひぇ・うるきび・いんげんまめをつくり、イチマツと片仮名で書いて、髪やヒゲをそりおとして帰化するなど、まことに「殊容なる」存在であった。クスリ場所にいる1300余人ものアイヌの中で、ほかに耕作にうちこむ者は誠に少ない。風俗を改め耕作に従事するのは「胤やんごとなき」ためであったと武四郎は書いている。武四郎にとっては、「まつろはぬ=支配にしたがわない」とおもわれているアイヌの中に、和風のたしなみをもつ者も多いと主張するのである。
 このイチマツの記事に、「クスリ場所にては当時41人の番人36人まで、土人の女の子を奸奪して妾となし」ときしている。女の夫たちは厚岸や仙鳳趾に雇われて出張中であるという。武四郎は白糠にはそんなことはないという。何故ならそのようなことがおきたら42軒、300余人の者が一斉に番人を「折檻(せっかん)=意見をしてこらしめる」したからであると。この記事についてはアイヌと出稼ぎ農漁民の関係をしらしめすものとして北海道史の中でしばしば紹介されるところである。武四郎にとってはどうして松前藩がこれを放置しておくのか、はなはだ理解できないところであった。これが幕府領になればと期待をよせているが、アイヌたちもまた同じように松前藩よりも幕府の政策に期待する点が大きかったのである。

馬士・治平

 交通に従事する馬士の治平は馬をつかわせたら曲のりの名人である。平凡かもしれないが、こんな技術の持ち主が蝦夷地の交通を支えている。外国船が接近したとき。勤務を命じられたところに行くとき帰るとき。視察の役人が調査にやってくるとき。人や荷物の輸送のために働いたアイヌたちがいた。いっぽうトウロ(塘路)の「ケンルカウス」「エレマヲイ」の兄弟は、その地方の乙名の家に養子にいったが、養父がなくなり跡継ぎを決めることになった。ところが兄のケンルカウスは実家の跡取りといって引き受けず、弟のエレマヲイは兄をさしおいて引受けるわけにはいかぬと、これまた辞退。つまるところ、クスリ会所では弁天社の神前で、クジで決めることにして、ようやく後継者を決めた。たがいに理の通った譲り合いの気持ちがけなげと武四郎は書いている。

乙名・ムンケケ

 クスリ場所の第三席の乙名のポストにあったムンケケは、アイヌの風俗を日本風に改めるのにストップをかけた功績者。
 役人はしきりにアイヌに米・煙草を与えて髪を月代(さかやき)に改めさせることがはじまっていた。これに反対する者は強制的に捕らえ、ヒゲをそり髪をあらためた。アイヌは嫌って子や妻をすて逃げてしまう。500人も住んでるはずのクスリ会所のあたりは、人もいなくなってしまった。そこで逃げた先のセンポウシやシラヌカに役人や漁場の番人をつかわして、老若をとわず無理やり毛を剃ることが続いた。女たちはもはやわが夫がそられ、我が息子も剃られるのかと気がきではない。こんな訳だから誰だって3日間も魚1尾たりとも恵んでくれる人もおらず、食べることのない日が続いている。いつまで、この和人による乱暴が続くのかと、年寄りたちは床の上で、ただただ涙を流すばかりであった。娘にいたっては悪い時代に生まれた。長生きしてどんなによいことがあろう。飢えて死に恥を残すよりはと、山・川に身を投げて死のうという者もあらわれた。
 こんなありさまを見ていた乙名・ムンケケは意を決して小刀を磨き、自害の決心をしていよいよことにおよぼうとした。この捨て身の行為にあって、わずかな日時でアイヌ全部を日本風にあらためさせ、手柄をあげようとしていた役人もこれまでの方針を考えなおしてしまう。クスリ場所に住むアイヌ1326のうち483人までは髪を改め、日本名にかえたと届け出があった。しかし武四郎が調査にきて調べてみると、みんなの頭はぼうぼうにのびて、日本人風の頭の者は、13人しかいない。アイヌのために勇気を奮ったアイヌ指導者の姿というわけであろう。

ヲムシャの図(大内余庵図)

偏見の除去

 武四郎が「人物誌」を通じて明らかにしようとしたことがいくつかある。
(1)世人のアイヌに対する偏見を取り除くことである。
 アイヌは文字もなく和歌をものにする民族ではないが、道徳の徳にもすぐれ、技術や人望あふれる姿を広く知らしめようとしたことである。
(2)アイヌ社会が絶滅の危機にあることを、具体的なケースによって紹介しようとしたことである
 漁場の労働力の供給源となったコタンの人口減少が明らかで、アイヌの生活は貧窮・病気・家族の崩壊など悲劇のきわみにあった。ほかの記録に開拓よりはまずアイヌの救済をと訴えながら、それだけでは飽きたらずアイヌ社会の絶滅の危機を、具体的なケースで紹介しようとした。「人物誌」が当局の目にふれ、アッケシのバラサン岬にたとえ3年間とじこめられることがあってもと、堅い決意を記している。
(3)幕府政策への期待をこめていたことである。
 最後に紹介した「乙名・ムンケケ」のケースでみたように、力によるアイヌ社会の日本化はいたずらに混乱を持ち込むばかりであった。それでも、松前藩の無策より幕府の施策に期待したし、さらには明治維新後の開拓使のほうがアイヌ救済の施策とんでいると期待したのである。このまま放置するなら、日本の北方政策に重要な影響をもたらすと信じていたからである。

開拓判官を辞す

 蝦夷地に通じた第一人者たる武四郎にとって明治政府への期待は大きかった。国防・開発のためには道路の開通が第一、漁業や水田を開き硫黄を採取できることは警備のため火薬の製造に役立つとしている。屯田兵を採用すること。アイヌ民族については、愛撫すべきこと、老寿者を賑恤(貧しい者の救済)すべきとも提案している。
 しかし、開拓使の役人たちが野蛮・無知という旧態のままアイヌ観を示すにおよび、激論になることが多かった。
 たとえば岩倉具視が三条実美にだした意見書である。激論や辞表をつきつけるたびに武四郎の友人となった島 義勇がなぐさめて思いとどまらせていたという。幕府時代の場所請負人がそのまま新政府の「漁場持」という役におさまることがきまり、武四郎の新政府にたいする気持ちもきまった。明治3年3月にとうとう開拓判官の職を辞してしまう。この後は任官することなく、東京神田五軒町に隠居し、ときおり、大好きな山のぼりを楽しんだ。




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