海岸線から内陸の開拓へ


「永住人」の記事

 政権は250年あまりつづいた江戸幕府から、明治新政府にかわった。新政府は明治2年8月に蝦夷地を北海道、クスリ場所を釧路国と呼び改めた。さらに釧路国・釧路郡など11国86郡をもうけた。釧路郡と厚岸郡は九州の佐賀藩の「飛び地」というかたちで佐賀藩の藩領の一部になった。これを分領支配と呼んでいる。佐賀藩はみずから農民や鉱業技術者を移住させ、農業や炭鉱を開くことにつとめている。これまでの場所請負人は、あらたに「漁場持(ぎょばもち)」という役に任命された。そのうえで漁場持にも移住者をつのらせた。佐野家が明治3年5月に174戸、637人の移住者を招いたのも佐賀藩の移民奨励をうけたものである。
 ところで明治3年6月になると、国泰寺の過去帳の記載にひとつの変化があらわれる。「永住」、「永住人」なる記事があらわれるのである。明治3年6月19日永住人・吉太郎が妻「婦み」を失った。ついで7月に永住人なる庄内半右衛門が死んでいる。この年だけで釧路では8人の永住、永住人が死んだ。漁場持による移住は5月に行われたわけだから、その直後から「永住」、「永住人」の記載が見られるようになる。
 釧路郡と厚岸郡では「番人」、「稼方」という記載が姿を消して、「永住」「永住人」の記載にかわる。つまり佐野が招いた移民を「永住」「永住人」と呼ぶようになったらしい。それまでも多くの出稼ぎ者や越年者があった。これは本籍を母村[南部や松前、箱館]におき、体だけがきている「寄留(きりゅう)」の扱いであった。今日では本籍をうつさず住民基本台帳にだけ登録されたものにあたるというべきであろう。
 「寄留から永住」。明治3年の佐野家による移住を特に注目するのは、どうもこのあたりに理由がありそうである。

佐野家の盛衰

 新政府の進める北海道開拓の中で、佐野家は明治2年に漁場持に任命された。明治5年には釧路郡ほか4郡の戸長に任命され、行政の仕事としても大切なポストをあたえられる。
 そのころ北海道開拓にかかる経費を負担することができるのは、水産関係者に限られていた。法に定められた海産税の負担はもとより、いろいろな寄付というかたちで費用を受け持っている。釧路に限ってみても日進学校、釧路国第一公立病院の建設費、電信線架設費、米町橋梁修繕費がある。厚岸の小学校建設のためにも寄付を求められた。
 それだけではない。道路の私費による建設もある。明治4年、佐野家が私費2万円をもって「米町通り」の道路を開いて住民の便利をはかったと伝えられる。この道路、道幅4間(7.2メートル)、長さ7町(778メートル)。のちに同家の屋号を残すべく「米町」の名が生まれた。ともかく衛生・消防・教育・治安にかかる費用が、こうした地方名望家の出資によって進められた。
 いっぽう輸出コンブの集荷、計量、価格(コンブ相場)は中国(清)商人に支配されていた。清国の商人は、日本の商品を上回る資金力にものをいわせて、漁業者に資金を前貸しし利子や手数料を負担させるとともに、コンブの買占めをおこなった。このような清国商人の商行為は、佐野家の経営を圧迫した。開拓使は佐野家に対し、これよりのち「外国人より決而借金」してはならないと指示する。外国商人からの借財を禁止した。
 開拓使は日本の商人によりコンブの直接輸出をするため、政策として広業商会をつくった。
 この会社は輸出コンブ価格を安定させるためコンブの委託販売を行い、漁業者に対する融資も行った。また、「漁場持」制度もやめた。出稼ぎ漁業者が漁場に定着し、漁業者として自立してきたことをバックに、新しい漁業制度の妨げとなっていた請負商人の特権を認めないことにした。漁業制度の近代化のためであったが、旧場所請負人にとっては、長い間漁場にもっていた特権と保護が一気に失われることになる。かわりに川湯硫黄山の硫黄試堀の権利を獲得した。漁場持を罷免されたことに対する代償といわれている。しかし、よみがえることなく釧路を引き上げる。釧路の江戸末期を支えてきた勢力の交代である。釧路の近世は終末の時を迎えたというべきであろう。

漁場から漁村へ

 江戸時代の開拓は大きく見ると海岸線の開拓であった。また、この時に築かれた漁場の形成は、その後の釧路の発展にとっても核となる部分であった。
 釧路町の指定文化財となっている「加茂家干場台帳」(明治9年改め)によると、数名の前貸し漁業者(仕込み主)もあるが、海産干場を占有し仕込み主から独立した自営漁業者がうまれてきている。
 これまで漁期になると漁場にやってきて、一部は越年するというかかわりかたであった。ところがこの自営漁業者たちは、生活の根拠を母村からこの地に移し、家族をともない前浜漁業にあたっているのである。そして自営漁業者たちの定住した集落が、こんにちにつながる集落の出発点になっている。つまり、釧路地方の海岸線に漁業集落ができあがりつつあることをしめしている。東北や道南からの漁業者の移住は、江戸時代以来、続けられてきた漁場を、漁村につくりかえることであったと言ってよい。

釧路川口付近のコンブ干場所有者(『加茂家干場台帳』釧路町教育委員会提供)

海岸線から内陸の開拓へ

 わが釧路にとって、江戸時代からこんにちまで、一貫して継続・発展しているものに漁業がある。釧路は漁業をベースにできあがった漁村を中心にまとまる臨海部のマチである。
 漁業で発展したマチに、農業や鉱業、林業や工業が加わった。漁村のほかに農業や鉱業の町が加わり、これらが次第に拡大してひとつのマチになってきた。
 農業では鳥取士族(明治17・18年)、愛知・岐阜団体(明治26年)の移住がある。石炭の採掘では明治21年から安田炭鉱が、春採湖畔で営業採炭をはじめている。釧路川・阿寒川流域の林業は、明治20年代、30年代と時を追ってさかんとなり、明治33年に北海道で初のパルプ工業を生み出した(前田製紙)。
 明治34年の鉄道開業と、42年からはじまる釧路築港工事は、陸海交通の結接点としての位置を釧路に与えてくれた。釧路川や阿寒川などの河川交通は鉄道輸送にかわり、場所請負人の所有船や北前船による帆船輸送は汽船の時代を迎えた。東蝦夷地第一の湊といわれたアッケシ。明治のはじめには千島をひかえ「根室県」の県都であったこともある根室。それにかわって釧路が道東第一の、商業の中心地になったのは陸海交通の結接点としての位置を獲得してからのことである。江戸時代が海岸線の開拓の時代であったとすれば、明治の釧路の建設は内陸開拓の時代への移行を背景に進められた。

江戸期の遺産

 江戸期の釧路の様子をそれぞれ具体的に見ていると、江戸時代に芽を出しつつ明治にいたり花ひらいたものが少なくないことである。なんといっても漁場の形成が第一である。明治になって釧路は函館の経済圏の中で発展したが、このモノの流れもすでに江戸時代においてできあがったシステムであった。内陸の開拓の担い手として東北・北陸の移住者たちの役割が大きいが、これは明治になって急にはじまったものではなかった。江戸時代すでに東北の漁業者たちが自分達の仕事場としてしげくかよってきていたことである。
 つとめて下北地方との結びつきの深さを取りあげておいた。航空機や青函トンネルはもとより、青函連絡船で行き来する時代にあってさえ、すでに下北は我々にとって遠い、ゆかりのない存在であったかに見える。ところが江戸時代には、釧路−襟裳岬−恵山岬−下北半島は1本の線で結ばれた、ごく身近な地域であった。
 明治の開拓を論ずるときしばしば「屯田兵(とんでんへい)制度」が話題になる。そのはしりは白糠にはいった八王子同心にすでにみられている。白糠・石炭岬の石炭採掘を囚人労働によりすすめるなど、明治にはいってからの北海道開拓の方法のいくつかはすでに江戸期において試みられていた。
 石炭の採掘やコンブの中国への輸出など、鎖国から開国への日本の歴史のダイナリズムにもゆれうごく地域であった。鎖国体制の中の黒船だってペリーばかりでなく厚岸湾や根室にきたものなどあって〃北の黒船〃として国際社会の緊張を伝えてくれる。北浜の地で学ぶ地域史は、長い時間をかけて形成された日本史の流れを、わずか数百年の間に凝縮して展開させてくれているのかの感がある。
 ともかく、原住民のアイヌ民族は、自然採集経済によりつつ、千島や樺太を通じユーラシア大陸との交渉があった。全国統一政権の成立や本州商人の蝦夷地進出は、モノの流れを松前・箱館、さらには上方、江戸へと変えてしまった。アイヌ民族にとっては生産と流通の手段も資本も全く異なり、まさに異文化との接触であった。あわせて原住民の固有の文化を否定してしまうことにもなった。かくて交易と漁業と交通の中心地の形成が進められる。明治に引き継がれる臨海部の地域形成が、実は江戸時代から進んでいた。ことさら江戸時代の人々の努力をかたわらにおいてしまうこともあるが、その胎動に気づいていただけたら幸いである。



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