クスリ商場の開設


 

日高のアイヌ、和人をおそう

 オランダ船が立ち去ってから、およそ20年。時代は寛文期(1661〜73)をむかえる。太平洋岸の日高・胆振・後志あたりのアイヌたちの争いがしばしばおこるようになった。例えば寛文6年(1666)には、静内の染退(しぶちゃり)川流域のアイヌと門別の沙流(さる)川流域のアイヌが、熊・鹿・魚の漁猟権をめぐって争うことがあった。おもてむきはアイヌとアイヌの争いである。松前藩の求める交易商品が多くなった。アイヌたちはそれぞれの猟場、漁場をおかして、よその狩猟圏にはいりこむ。そこで熊・鹿・魚の6漁猟権をめぐる争いがくりかえされていた。寛文9年(1669)5月、静内の染退川流域のアイヌと門別の沙流川流域のアイヌの争いに、ほぼ蝦夷地全域のアイヌが加わった。砂金の金掘師、鷹の捕獲者、交易の商人、船乗りらが蝦夷地にいたが、これを相次いでおそい237人の和人が殺された。シラヌカやクスリもこの事件にまきこまれている。

交易船に犠牲者

 「津軽一統志」、などの記録ではシラヌカで13人の犠牲者がでたとある。また「松前之図」の犠牲者や遭難船の数では「シラヌカ 蠣崎蔵人 船 人数14人 クスリ 前田九郎左衛門 人数 8人」とあり、前田九郎左衛門なるものの船が派遣され、8人の犠牲者をだしていることになっている。前田は蠣崎蔵人とともに白糠におけるアイヌとの交易権を認められていた藩の有力家臣のひとりである。クスリでは遭難した船や犠牲者はないとされている。ところが、「松前之図」の図は、これを否定する記録である。         
 蜂起をおさえるため、藩の鎮圧軍がおくれた。となりの藩となる津軽藩も調査のため藩士を蝦夷地にひそかに送り込んでいる。「津軽一統志」、「寛文捨年狄(てき)蜂起集書」はそのときの記録。記録でこの地方の様子を紹介しよう。

松前〜クスリ間の交通

 「津軽一統志」に東の商場が紹介されている。このころ太平洋岸は「下国」とか「下狄(てき)地」と呼ばれていた。
 松前からの道は浦河より約10キロさきの運別というところまで。これより東は相当の荒れ道で、釧路までは夏の一時期、急いで20日、普通は25日の道のりとある。海路は松前からクスリ・アッケシまで追い風があれば昼夜4日でつく。上りは東の風や山瀬のかぜ(陸からの風)が追い風で、5日ほどである。

シラヌカの知行主と産物

 シラヌカでは蠣崎蔵人の船と14人(「津軽一統志」では13人となっている)が遭難したとあった。蠣崎家は藩の家老職である。先に述べた「商場知行制度」のもとで、シラヌカは藩士の知行地で蠣崎蔵人という者がこの時期の地行主となっている。この蠣崎とクスリのところに名のあった前田の両名が白糠のアイヌとの交易権を持っていた。前田は交易船に15人をのせ白糠・釧路にきていて事件にあったという。
 白糠では寛文期ー蠣崎蔵人、前田九郎左衛門の給与地、元禄期ー飛内亀右衛門、元文期ー飛内儀右衛門の給与地であった。

釧路川口に商場

 松前藩の交易船がクスリやシラヌカにきていたことがわかる。どうもこのころには、それぞれ商場ができあがっていたようである。クスリは藩主の直領地。どこに釧路川流域のアイヌに対する交易場が設けられたのであろうか。やはり「佐野碑園」のところであろうか。それとも松浦武四郎が記録に残した「トンケシ」つまり浪花、寿町かいかいの砂浜であったのだろうか。

交易の再開を要求

 知床半島から釧路にかけての一帯をのぞいて、ほぼ蝦夷地のおもな河川で本州からの鷹師、金掘師、あるいは交易船の乗客員がおそわれた。事件のあとしまつが終わるまで松前の交易船がこない。奥地の商場では、交易が行われないために、さしさわりがでてきていた。
 寛文9年8月、クスリとアッケシのアイヌはそろってシラオイ(白老)まで陳情にでかけている。「米がないから200俵ほどほしい」。「交易船がこないので迷惑している」。「忠節をつくすにかわりはないのだから交易船をよこしてほしい」。
 本州商品が生活の日常品になったことはすでにふれたが、生活必需品の供給をたたれ、おもいのほか大変なことであったことがわかる。話は飛躍するが、近年のオイルシッョクにさっそく政府特使が派遣されたことと、よくにている。
 商場知行制がゆきわたり、主要河川の川口に交易場が設けられた。本州商品が定期的にアイヌたちの社会にもちこまれるようになり、生活や生産のしくみを確実にかえてきた。再びたとえ話しをもちだせば、石油製品の広まりがわれわれの生活を大きく変えた。そのことをおもいおこすことにしたい。蝦夷地の産物と本州の商品が、商場知行制のもとでしっかりむすびついた。一方では交易量の増加と、アイヌの方に不利益な取り引きの強要は、アイヌ対アイヌ、松前藩とアイヌ社会の対立をふかめていった。

縄綴船と扇帆をあやつり航海する図

主要産物

 釧路からどんなものが出荷されたのだろうか。サケは交易品の代表。まだ塩蔵の技術はなく天然乾燥品である。アイヌの貯蔵用飯料が交易にむけられた。干サケは川にのぼったサケを捕獲し、野にも山にも手あたりしだいにかけて干す。適当になったら室内にとりこんで火の上に吊っておくので黒くなっていること。これは藩の役人の記録である。和人がサケ漁をすることもこのときからおこなわれていた。ただ、この漁業権は家臣の知行地であっても藩主のものであったから、サケ漁には特別のための権利金(運上金)をおさめていた。

軽物

「かるもの」と呼ばれる産物がある。クマの皮・胆・海獣(テン=貂・カワウソ=獺)の皮革類である。クマの内臓は内服薬、男性器は精力剤にされた。皮革類は山靼交易や樺太交易などにむけられた。蝦夷綿とよばれる山丹服、玉、キセル、矢箭にかえられた。
 ※山靼交易=アムール川下流域の住民と樺太アイヌの人々との交易のことをいう。

鷹・鷲

 鷲は弓矢の羽。鷹は鷹狩りにもちいられた。鷹の主要産地は津軽・南部・松前の東北、北海道の3藩が代表であった。鷹は最高権力の象徴であった。だから優れた鷹を厳重な管理のもとに、輸送し将軍家に献上するものである。

タンチョウの生け捕り(『蝦夷風俗図』函館市立図書館所蔵)

鷹狩りの政治的意味

 この目的は次のようなところにあった。鷹狩りは将軍やその一門のあそびではあるが、江戸の近郊の農村に権威のおもみをしめて将軍の支配強化をねらい、最高権力の象徴としての鷹をもって諸大名への将軍統制をすすめるためであった。鷹狩りは士族のたしなみである。士族以外の鷹狩りは禁止される。鷹狩りへの参加をつうじ士族身分を固定することを意図している。その政治的意味あいはきわめて強いとされている。

密交易

 寛保3年というから1743年のことである。シラヌカに派遣された松前の藩士飛内儀右衛門の船が、となりの商場のクスリの荷物を「過分に買取る」事件が起き、クスリの船頭から訴訟がおこされた。
 シラヌカには飛内の船に船頭の兵右衛門が、クスリには松前藩の藩主にかわって「上乗役」の田村嘉戸助、船頭重次郎らが派遣された。ところがシラヌカにきた船頭が、藩の上乗役と手を結んで内々にクスリ商場から商品を買取ったというのである。ほかの知行地、商場と交易するのは厳禁だが、遠隔地のため、「抜け荷」といわれる密貿易が行われていた。
 しかも、アイヌに交易物をかならずだすよう、約束の証文にかわる「手印」までださせていた。上乗役の田村は積荷の調査や、船頭・船乗りの取締りが役目なのに、交易の不正をみのがしていた。裁判となり知行主の飛内に「遠慮」、田村に「差扣(さしひかい)」という謹慎処分が命じられた。

交易から生産の場へ

 ここにいう商場とは、藩主の方から見れば蝦夷地産物を集める範囲をさす。交易品目は干サケ、クマ・カワウソ・テンなどの海獣の皮革類、タカ・ワシの羽などで、砂金・鷹・漁業・木材などの採取は藩主に所属し、それ以外にはみとめられていなかった。
 松前氏はもっとも北に位置する大名であった。しかも東北や北陸と蝦夷地の間の証品流通を担当している。すこぶる商人的な性格をもつものが、武装し政権についた大名であった。藩の財源となるものは
(1)蝦夷地交易でえた商品を松前で売ったり、東北や北陸の港にいって必要な商品とかえてうまれる利益。
(2)藩主が直接掌握している砂金・鷹の売買と捕獲を希望する者への運上金。
(3)蝦夷地産品の交易のため松前にくる商人に対する役金(税金)。
家臣は知行地を与えられたもの34〜35人で、たいアイヌ交易権を与えられた家臣をさす。切り米とりといわれる俸給を与えられた家臣も40〜50人いる。
 商場知行制のもとにあたっては生産の主体がアイヌにある。しかし、蝦夷地産物の需要量の増加や種類の拡大によっては、交易の対象である商場から生産の場所にかわる。それにともないアイヌたちは交易品の生産者から漁場や山林の労働力にかわってゆくことになった。



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