箱館開港


諸外国と和親条約

 ペリーの浦賀来航で国内が大揺れにゆれた嘉永6年(1853)が暮れた。再び来日を約して日本を離れたペリーは、翌年1月に早くも日本を訪れる。日米和親条約の交渉がはじまり、3月には調印のはこびとなった。別名を「神奈川条約」。鎖国体制の終わりを告げる条約である。この条約で下田とともに箱館はアメリカ船に対する薪水供給地になった。アメリカの船員の生命財産をまもり、薪水・食糧の補給、通商貿易が取り決められている。アメリカは太平洋横断汽船航路、北太平洋に出漁する捕鯨船の寄港地を日本にもとめた。2つの理由がある。前者は中国の市場分割に参加するためである。後者はアメリカの捕鯨業が北太平洋を漁場として、活用することになったことである。津軽海峡に面した箱館を選んだのは、主に中国航路を開くにあたり、寄港地を求めていたことによる。
 日本はアメリカについでイギリスと日英和親条約を、安政と改元(11月27日)されたあとの12月に日露和親条約を結んだ。この条約で択捉・得撫の両島の間を国境と定め、樺太を雑居地(日露両国民の居住地)とした。安政3年2月から外国船が来港する。

幕府再直轄

 幕府は箱館の開港に向けた準備にとりかかる。松前藩にまかせておくだけでは警備も心もとないし、請負商人はアイヌを酷使するばかり。外国との接触でむしろ離反することもある。外国から汽船のために石炭、船員の洋食にかかせない肉・ばれいしょ(馬鈴薯)を要求された。これに答えるべく鉱業、農業、畜産業に手をつけた。
 幕府は嘉永7年6月に箱館奉行をおき、箱館周辺を幕府領とした。あけて安政2年2月残りの蝦夷地−樺太・国後・択捉など付属諸島を含む−を幕府領とする。蝦夷地を幕府直轄地としたうえで、同4月、警備を東北五藩−津軽・南部・秋田・仙台・会津−に担当させた。「第二次幕直轄」とか「幕府再直轄」とよばれる。クスリは安政2年2月から幕府領となり仙台藩の警備地となる。

箱館が開港場

 安政6年に箱館は北海道でただひとつの、しかも最初の外国貿易港となった。ちなみにアメリカは松前を開港場とするよう要求した。幕府は城下であることを理由に強く反対し箱館に決まる。この年11月に、さらに蝦夷地を東北諸藩、松前藩、幕府直領地に分けて支配することになった。クスリについては安政2年から引き続き幕府直領地で仙台藩の警備地と決まった。クスリが幕府の直領地であったのは太平洋岸とオホーツク岸を結ぶ交通の要地との理解による。

幕府役人の勤務

 箱館奉行は蝦夷地の経営を指揮する。「詰合」とか「勤番所」とかよばれる出張所がクスリに設けられ、幕府の役人が勤務した。クスリの勤番所には安政4年に、下役−柴田弁一郎、同心−小田井蔵太、足軽−腰山平左衛門が勤務した(島「入北記」)。クスリとネモロの勤番所はともにアッケシ勤番所の指揮のもとにあった。勤番所は4点の業務を行なう。(1)行政−制札掲示(掟・制書)、出稼ぎ者・アイヌの戸口の掌握、場所間の出稼ぎ者・入稼ぎ者の異動。(2)経済−密交易の監視。漁場および商船の監視。(3)防衛−異国船の監視。具体的な警備活動は仙台藩の負担。(4)異民族ーアイヌ帰化。司法・医療はアッケシ勤番所が行った。このあたりアッケシ重視の考え方がうかがえる。
 「東蝦夷夜話」という本を書いた大内余庵はアッケシ在勤の医師である。医師は春秋の2度、各場所をまわり診療と備え付けの薬品の補充を行った。急病人があったときには勤番所の依頼によって往診することもある。
 安政3年(1856)に西別川のサケ漁をめぐってクスリとネモロ(根室)のアイヌが争論となり、訴訟になった。アイヌの訴えはそれぞれの会所から勤番所を通じてアッケシ勤番所の役人によって裁決されている。
 警備にあたる仙台藩はアッケシに滞在していた。シラオイに本陣屋があり、アッケシ・クナシリ・エトロフに脇陣屋があった。この時期に外国船が来ていないので、仙台藩がどんな活動をしたのかは分からない。玉虫「入北記」ではバラサン岬(厚岸)に300目の砲筒が一挺あるだけ。仙台藩の玉虫自身でさえ「何ノ防ギニモルナルマジ」と嘆いたほどである。




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