諸藩の蝦夷地調査


幕府首脳の調査

 老中・阿部正弘は、老中一同が蝦夷地の事情を知るために家臣を派遣して蝦夷地調査にあたるように命じた。また、老中の家臣だけでなく、土佐・佐賀・伊達(仙台)の家臣による調査もあった。さらに、松浦武四郎や「北海道路検図」という絵図を残した目賀田守蔭の調査もあった。安政4年(1857)の蝦夷地は、調査に訪れる役人や藩士が多く、こうしてめまぐるしく過ぎた。

石川和助「観国録」

 いいだした張本人の阿部正弘は石川和助に調査をさせ「観国録」を残した。安政4年9月3日、会所にとまる。地勢・境界・戸口・風俗・産物・土壌・気候などを調査する。釧路川口の湾は小さく、砂浜海岸で大船の停泊に支障があるし、風波の立つおそれもあって、良い港とはいえないとの印象を記している。農業については釧路湿原を水田にふさわしい地と見る。原野をみな水田にかえ、雑穀や野菜の種をまけばよくみのると聞いているし、稲といえども栽培できると確信していた。

久須里図(成石修『東徼私筆』掲載図)


成石 修「東徼私筆」

同じ老中の久世大和守広周の家臣からは、成石 修「東徼私筆(とうきょうしひつ)」が残されている。安政4年7月15日に厚岸、16日仙鳳趾、18日昆布森、19日釧路にとまる。釧路で目にとまったものが2つある。ひとつは台場に捕らえられた筒二挺。二つは1行をもてなすためにだされた新潟県のすいかをたべたことであった。成石は西瓜のもてなしに、大変驚く。蝦夷地でこんな珍味を味わえるはずがないと思ったからだ。いっぽうではるばる越後から西瓜が届いているという商品の流れを目の当たりにして、またまた驚くのである。白糠で石炭岬の石炭採取場の絵図を残した。これは後に述べる。

森 一馬「罕有日記」

 罕有=かんゆう、まれにあるという意の日記を残したのは森 一馬。牧野備前守忠雅が派遣した。森の一行は7月26日に厚岸より仙鳳趾にはいる。会所に着いたのは翌27日である。人も馬も多くのアイヌの家70余があるなど、釧路川に沿った一帯はよく繁盛していた。気のつくのは役人のお目付役の感覚をにじませている点。隣のアッケシ場所の役人の評判に、いささか悪い印象をよせている。どうしてか。ひとつはアイヌ和人の席順である。この役人、アイヌの乙名は村の村長にあたるが場所の番人は商人の召使いにすぎないから、アイヌの乙名が上座になるときめた。
 その2は場所内の支配人や番人に麻上下(あさかみしも)を使わせないのに、乙名には着用をゆるして正月年始の挨拶をさせた。どうも和人の覚えがよろしくない。紀行文の域をこえて、蝦夷地に勤務する役人にはちょっぴり辛口をきかせた報告書となっている。

窪田子蔵「協和私役」

 「協和私役」(きょうわしやく)。外国掛老中で佐倉藩(千葉県佐倉)の藩主である堀田備中守正篤からは3人が派遣された。9月23日にアッケシから釧路会所にたどり着いた。クスリ場所に勤務する小田井蔵太の話にいうには、漁業に力を入れすぎていて、農業開発を忘れていると話す。このままでは、移住者が増えこそすれ漁業資源は乏しくなるばかりと、漁業経営の存続が困難になることを心配する意見に、窪田は多いに心を動かされている。
 窪田は報告書に「人口増多になれば海漁は次第に減ずるぞ」と書きしるす。本州からの移住者を漁業者から農業者にかえ、蝦夷地を農業開拓地にして、本州の農業をさらに外に向かって拡大できると、そんな確信めいたものをこめた報告書となっている。

雄藩の蝦夷地調査

 老中のおくりこんだ調査に対し、佐賀・仙台・土佐藩も藩士によって蝦夷地を調査している。蝦夷地に利権をえて苦しい藩の財政をたてなおしをはかる目的があったとのみかたもある。

玉虫左太夫「入北記」

 仙台藩・伊達慶邦の命を得た玉虫は、箱館奉行の堀 利煕にしたがいながら調査していた。あとにふるれる佐賀の島 義勇も一緒である。玉虫はアイヌの人口や交易条件を調査している。アイヌの給料、本州商品の売値、産物の買値、出産物の品名と量を数字でおさえているのはこのためであろう。アイヌの支配にも注意し、地方支配の役職・人名を丹念に調べあげている。
 クスリ場所については、(1)稲作には向かないが畑作は可能である。釧路にとまった8月23日を「江戸十月頃の時候」と、感じたからである。(2)漁業資源ではサケとコンブがあり、「この辺にての上場所」とみた。(3)白糠では石炭を掘っているので見学し「是を堀り開きなば多分の有用なるべし」。コンブ採取の様子から「土人三、四〇軒余も是あり、随分可なりの場所」と記録する。

島 義勇「入北記」

佐賀藩の鍋島直正は島 義勇を派遣した。島には同名の「入北記」をまとめさせている。島が見たものは、(1)良い馬が多い。(2)釧路川のサケは400石ほど。熊もときどき出没。(3)霧深く見誤ったのか阿寒の山を実際より近くに見ている。海辺より3里くらいは土地もよく広野・平原のようになっている。(4)白糠の石炭山ではアイヌを働かせているが、なれないためか大変恐ろしがっている。
 (1)は交通の馬が備えられていることを示す。(2)はサケ、クマ、タカ、ワシなどの漁撈・狩猟の行われることをあらわす。(3)釧路名物の霧と湿原にかかわる。島の報告書は、広く人の目にとまることを予想していないようだし、玉虫の記録と比べるとき、勤務している役人の役職一覧をのせるなど、地方支配のあり方への関心が深いように見える。

調査の成果と影響

 老中らの派遣した調査では、蝦夷地に農業の可能性をみいだし、あらたな移住先として有望な地とみるむきがつよい。石川和助・窪田子蔵らの報告書につよくあらわれている。これまで蝦夷地への移住を東北地方の藩の問題と考えてきたけれども、石川や窪田の報告は移住者の送りだしさきを、東北地方からさらに拡大して蝦夷地に求めることを提案していることである。それぞれの藩で見られる土地をはなれ都市に集まる者や、二・三男のために蝦夷地が役立つとのみかたである。
 いっぽう雄藩の調査は幕府とはかかわりのない独自の調査だけに、幕府の役人や商人の施策や行動を批判の目でみつめている。さらに資源や流通・労働力など経済状況をつぶさに調査し、蝦夷地もしくは北海道を自分の領地の一部として支配するおりには、調査の成果をもとにしていたようにみえる。調査にきた藩が、分領支配した地域を並べてによう。
 仙台藩 玉虫左太 −「入北記」= 安政6年にシラオイ・トカチ・アッケシ・ネモロの一部、クナシリ・エトロフを分領地、クスリを警備地
 佐賀藩 島 義勇 −「入北記」= 明治2年−4年に釧路・厚岸・川上郡を支配
 福島藩 石川 和助−「観国録」= 明治3年−4年に白糠・阿寒・足寄郡を支配
 仙台藩では他の東北諸藩にくらべ、経営利益の大きい資源開発の可能性にとんだ地を拝領している。佐賀藩が明治初年に釧路地方を支配し、農民や鉱業技術者を送り込んで農・鉱業を試みた。玉虫や島 義勇の調査はこうしたところで力を発揮したものと思われる。




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