箱館の蝦夷地産品集荷体制


「箱館産物会所」

 蝦夷地経営のための経費は、漁業による利益をもってあてた。特に漁業の仕組みには手をふれず、生産物の流通、つまり商品(このうち中心となるものは水産物であった)の流れをコントロールし、さらに課税して財源をつくることであった。幕府は蝦夷地を支配するための経費だけでなく、幕府の財政そのものの維持のためにも、水産物の取引から多くの利益を上げる計画であった。例えば、コンブは中国向けの商品となり、開国を求めてきたアメリカ・イギリスからの取引の申し込みが相次いだ。輸出品のめどがついたわけである。安政4年、蝦夷地の生産物の統制のために箱館産物会所という役所を設けている。

御用達商人の任命

 箱館産物会所の行う輸出コンブの集荷や販売・輸送などをまかせられたのが佐野などの御用達(ごようたし)商人である。この御用達商人は箱館港で「町年寄り」「船問屋」をつとめる商人たちのグループが担当していた。はじめ白取新十郎、蛯子らが町年寄り、杉浦嘉七(トカチ・ホロイズミ)、佐藤半兵衛が船問屋の職にあった。ところが白取・蛯子が金銭事件で罷免されることになった。後任には杉浦と佐藤があてられ、両名の空席を小林重吉(日高ー三石)と米屋・佐野孫右衛門(クスリ)でうめることになった。輸出コンブ地帯の請負商人が頭角をあらわしている。

経営の方針

 幕府は有力な商人に新たな漁場開発を命じた。例えば、佐野には樺太の漁場開発を命じた。前年、樺太を幕府領にしたことによるもので、商人に特権を与えながら、商人の資本力をもって漁場の開発と防備を行う計画であった。
 本州からの出稼ぎを受入れるため、渡航の制限をとりのぞいた。浮浪人や二・三男の入地をすすめ、蝦夷地の労働力を確保するためである。幕府の手で農林鉱工業にわたる政策が立案のうえ実施された。前期の蝦夷地政策から見るとかなり積極的な姿勢がうかがえる。

〃箱館〃経済園の成立

 箱館開港は東蝦夷地に対する箱館の経済支配をつよめた。古く元文期(1736−40)に「北海随筆」が箱館の地位に目をつけた。いわく松前は領内の中央で津軽に近いが、土地が険しく船の入り澗や府となすべき土地がない。ところが亀田のあたりからは土地も平らで、入江もよい。南部の大間、佐井との間の潮の流れも緩やかである。府となすならば水戸、仙台の船が集まり、江戸との廻船も自由だ、と。
 寛政11年(1799)に幕府が蝦夷地を経営したとき、幕府は箱館−佐井の航路をつかい、奉行所も箱館においた。このことは東蝦夷地にたいする箱館の経済支配をつよめるようになった。さらに、安政の箱館開港では輸出用コンブの取扱量が増加した。その主要産地が北海道東部であったから、箱館と北海道東部の結びつきはいっそう強まった。以来、小樽とともに北海道の経済を2分するが、その発生はこの時期に求められる。




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