コンブ産地の形成


コンブの生産増加

 箱館開港は北海道の古くからのコンブ業にいろんな意味で影響を与えた。生産量や出荷量がいっそう増えた。この原因はアメリカ、イギリス、オランダが箱館で蝦夷地の昆布を買取り、中国にむけて売込んだためである。
 コンブの生産地域が広まったし、働き手として漁場に来るものが多くなった。すなわちクスリ前浜やクスリ東部のコンブの生産量が確実に増加していることである。

サケ漁に大謀網

 コンブ生産量の伸びに加え、釧路川口でニシン・サケ・タラ漁が行われていた。シリト〜釧路川口〜トンケシの地先の海を「釧路湾」と呼び、コンブ・ニシン・サケ(これをあわせて「三業」とする)の好漁場であった。
 サケの漁具は文化2年(1805)に海岸部で建網(定置網)をもちい、釧路川などの河川部では引網をつかっていた。元治元年(1864)になって米屋は、建網のうちでも大型の大謀網(たいぼうあみ)を使い始めた。大謀網は身網が楕円形で、まわりの長さは150尋(ひろ=約1.8メートル)ある。これに袖網をつけたもので、網をおこすのに船3隻、漁夫25人くらいをあてる。陸前(岩手・宮城県の一部)地方のマグロ・ブリ漁にもちいられていたのをサケ漁に転用し、おおいに漁獲高を増したとある。

ニシベツ川論争

 商人たちに大型の網を使う漁法がゆきわたると、川口でサケを捕らえてしまうので、産卵のため川の上流にのぼるサケが少なくなった。上流でサケを捕獲しているアイヌにとっては打撃である。
 別海町に川口をもつ西別川というのがある。川口がネモロ場所にあり、ネモロアイヌが漁業権を持っていた。しかし、ネモロアイヌと話合いのうえで、クスリアイヌも上流でサケ・ワシ・クマをとることを認められていた。収穫物の3分の1を使用料でネモロに差し出すこともあった。のち代表どうしで、代価をわたしてシカルンナイからカンチウシという区間の漁業権をクスリアイヌのほうで買う、という案を取り決めた。クスリ側ではこんないきさつのもとでニシベツの漁業や狩猟を続けてきた。ところが、和人の漁業が行われることによって、漁業はもとよりクマ・ワシ猟の資源も不足してしまった。その原因は川口でサケを捕獲してしまうことにあった。
 安政3年(1856)12月、クスリの晴一郎ことメンカクシは、サケの漁がうすくなって飯料に困るので、川口に網をはるのをやめよと訴えをおこす。争点は西別川にクスリアイヌの漁業権があるのか、ネモロで留め網をはったのか、ふたつあった。ネモロのアイヌは留め網はアイヌのしたものではないと主張したので、ネモロ漁場の支配人が呼ばれる。江戸幕府に献上するサケをとるのにやむをえず留め網をはったと認めることになった。訴訟はアッケシにいる役人が担当した、クスリアイヌ側の勝訴になった。漁獲生産高をたかめようとする和人の策や大型漁具の導入は、アイヌ社会に摩擦と争いをまきおこすことになった。

コンブ労働者の系譜

 コンブ生産の拡大をささえたのは、本州からの漁業労働者たちである。国泰寺の「諸場所過去帳」の中から、クスリ場所の漁業者をひろってみよう。
 「番人 市太郎 南部奥戸 三六才」、「番人 友三郎 南部宮古」、「番人 平治 南部八盛」、「番人 松前・唐津内」といった出身地が見られる。八盛は秋田か、南部の八戸・盛岡のいずれなのか。そうした出身地に不確実な面も多いが、そうじて南部の出身者が目につく。
 やや余談になるが、国泰寺の関係している十勝から択捉の各場所で死亡した者の中にはこの時期になっても南部の出身者が多いのである。森 一馬の記録によれば番人は1ヵ年の給金(貸金)は13両ほどになる。勤めはじめの1、2年は5−6両から8−9両が支給される。漁が豊かなときはこれに手当がつく。コンブ100石も採れば代金70−80両にも相当し、その1割を手当金として支給される取り決めであった。200石も生産すれば手当だけで14−15両も手にすることができると報告している。


アイヌの強制移転
 漁場の労働力を確保するため、アイヌの移転が簡単に行われた。コンブの取引量の増加は、これまで活用していなかった新しい漁場を開いていった。人口の増えた漁場が誕生した一方、居住者の全くいなくなってしまった漁場もまた発生したわけである。
 山住みのアイヌが漁業労働力となって、海岸べりに移動していることも珍しくない。山は老婆といたいけな子供が残ることになる。松浦武四郎が厳しく指摘したところである。このほか、アイヌの働き手のないアッケシでは日高のサル(沙流)や箱館からアイヌをつれてきている。また、ネモロではわざわざホロイズミまでアイヌをつれていって、コンブ採りの技術を学ばせている。

大きくなる川口の集落

 釧路川口の漁場としての発展は、労働力としてのアイヌ人口を吸収する。武四郎は釧路川口にもと81軒385人のアイヌがいたが、ほかの漁場より出稼ぎにきて仮小屋をつくり漁業をしているものが少なくないとかいている。そのころクスリ場所のアイヌの戸数は251軒、1306人だから、戸数にして3分の1が釧路川口に集まっていたことになる。このうち帰化しているものも37、8人あるという。イワシは不漁になってはいたが、マス・サケ・タラの漁業が行われていた。

輸出コンブの生産地

 箱館開港はクスリより東の地域をコンブ漁場に変えていった。武四郎はクスリ以東のアッケシ・ネモロの生産高は蝦夷地第一の出産高で、河海漁猟の道具を揃え、山野の開拓に力をそそげばたちまちにして「北海無比の一良国」になると評している。この地方のコンブ漁業の開発は、安政の箱館開港いらいもっぱら中国輸出にふりむけられることで本格化した。さらにはこの時期から太平洋岸のコンブが北陸の商人により薩摩や沖縄にまで流通するようになった。
 長崎を通じて輸出していた時期に比べ、箱館からまっすぐつみだされるようになった。この時期は、取扱い量では著しい伸びを示し、産出地域も広まった。天保年間には日高が蝦夷地のコンブ産出の中心であったが、安政年間にいたり釧路・根室がコンブ産出の中心地となる。コンブ漁業がより奥地に、より外縁部にむかって広まっていくすがたを確かめることができる。
 この地方のコンブは「ナガコンブ」とよばれる。本道産のコンブの中で品質が劣るが、資源量のうえでは最も豊かであった。コンブ資源の開発について下北・箱館周辺の昆布資源量とのかかわりを無視できないし、コンブ地帯が東方へ移動した結果である。箱館開港後の蝦夷地産コンブ中心は、クスリ・アッケシ・ネモロ周辺の「ナガコンブ」に移った。

「米屋」姓を賜る

 釧路地方がコンブの主要産地にかわると、コンブ取り扱い商人の経済的地位や発言力を高めることになる。米屋孫右衛門はクスリ場所の請負いのかたわら、安政5年に樺太のクシュンコタン・イヌヌシナイに漁場をひらいた。前年、幕府は樺太を直轄地にしたので、この開発を有力商人に負担させた。特権を認めるかわりに漁場の拡大と防衛を負担させたものである。文久3年には漁場を返納しようとしたが認められず、なお3年間の経営をつづけざるをえなかった。さらにアブタ・ウスの請負人をクスリ場所とともに兼ねた。
 姓「佐野」を賜ったのは慶応2年である。苗字帯刀をゆるされたとある。この年、欠員のうまれた箱館の御用達(ごようたし)商人に任命された。白取新十郎・蛯子が罷免され、その後任のひとりに佐野孫右衛門が補充された。御用達商人は外国船に売渡す商品を取扱う役柄で、所有の船は数艘あると伝えられる。箱館奉行のこうした取り扱いは大変名誉ではあったが一連の負担はことごとく経営を圧迫した。

下北漁民の定着

 南部地方は箱館とならぶ長崎向けのコンブ産地であった。箱館がコンブ生産地に組み込まれるのは、明和期のことである。天保2年には南部からの仕入れは中止された。私達は昭和45年に下北半島の調査をおこなったが、そのときの聞き取りでは、下北のコンブに「箱館産」の名をかぶせて出荷したとおしえられた。コンブの取引市場のなかで下北のコンブから蝦夷地産のコンブに比重が移り、下北の漁業者が出稼ぎの場所を蝦夷地にもとめて、津軽海峡をわたることになった。

石田家(桂恋)

 戦後、釧路市桂恋地区の漁村調査をおこなった布施正氏は、この地域に一族をかまえる石田家は、下北郡東通村字猿ヶ森の出身であることをあきらかにした。移住した辰之助は同村字野牛の中島家の5男にうまれ、山ひとつこえた石田家の養子に迎えられたという。辰之助は桂恋を選んで定着した。コンブ漁場はいきおい僻すうの地にもとめられ、そこへの移住を必要とした。石田家の桂恋移住はクスリのコンブ業のあゆみのひとつのなりゆきであった。そして、明治期のコンブ業もこの基礎のうえにつちかわれている。




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