1.クスリ場所


 幣舞橋を北から南へ渡りきると、最近釧路新名所となった花時計のある丘に突き当たる。この丘をバス通り(富士見坂)に沿って登り詰めた左手に釧路市公民館が建っていた。今日、生涯学習センター”まなぼっと幣舞”が偉容を誇る丘上は、釧路一帯から阿寒の山なみまでも一望に収められる絶好の展望台である。

 ”まなぼっと幣舞”の前庭に、遠く阿寒の峰々を指し示すアイヌ人従者の説明を聞きながら矢立の筆を執っている武士の像である。像に刻まれた武士の名は松浦武四郎。徳川時代末期、幕府役人として数度にわたって北海道(当時は蝦夷地と呼んでいた)を探検巡視し、明治維新後は一時、開拓判官として北海道行政の中枢にも参与した人である。また北海道の山川地理草木に詳しく、また一般には『北海道』の名付け親として知られている。

 武四郎が釧路に足跡を印したのは弘化2年(1845)、安政3年(1856)、安政5年(1858)、の都度三度であり、このときの記録が『蝦夷日誌』『竹四郎廻浦日誌』『久摺日誌』『東蝦夷日誌』として残されており、当時の釧路地方の地理風土を知る資料として貴重であるばかりでなく、和漢にわたる該博な学識によるすぐれた情景描写やアイヌ人に寄せる愛情や交歓などは好個の読み物として興味の尽きない紀行文でもある。

 しかし、今ここではその紀行を詳細に解説する意図はなく、彼の足取りを克明にたどるつもりもない。ただ彼がこの地を旅したのが今から百二、三十年前であるということと、その時彼の目に映った釧路の姿がおぼろげにでも伝えられればそれでよい。

 『東蝦夷日誌』には、当時このあたりがクスリ場所の中核として、場所内の総家数(アイヌ人家屋)二五二軒のうち七二軒がここに集中し、高台(現在の浦見町の高台を指していると思われる)には鎮守の社がまつられていることが印されている。

 ところで、厚岸に国泰寺の設置が決まったのが文化元年(1804)、つまり今から百七十七年も前であり、この寺の歴代住職の記録である『日鑑記』などから、そのころの厚岸や釧路にはすでに幕府、松前藩役人や国泰寺僧侶、場所請負の会所における番人、漁夫たちの越冬居住による和人とアイヌの生活社会がつくられていることが知られるので、それから50年も後の武四郎の時代を取り上げる必要もあるまいと指摘もあろうが、しかし武四郎の時代といえば徳川の世もいよいよ末、泰平の世も鎖国の国是も、滔々(とうとう)たる時代の波に押し流されて明治の世へと大きくうねっていく直前のことである。特に北海道、とりわけこの釧路地方では、安政元年(1854)の箱館(函館)開港を契機にして、清国(中国)に対する輸出用昆布の生産拡大に対応する漁場開発や外国船への燃料供給のための石炭採掘など、世界の資本主義体制の枠の中に組みこまれて行く前夜とも言うべき時期であり、近代への出発点と考えてもいい時期にあたっている。


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