2.場所請負


 明治以前と維新直後の北海道の歴史を見るとき、たいていこの『場所請負人』と言う言葉に出会はずである。そこでこの際、北海道の歴史の中で言われる『場所』と『場所請負人』について、ごく一般的に解説しておこう。

 明治以前の北海道では、道南の福山(現松前群松前町)を中心にした地域(松前地と言う)に松前氏が領地を持ち、戦国の世を統一した豊臣氏(後に徳川氏)から、その領地支配とアイヌ人(蝦夷)との交易の独占権を保証されていた。

 ただ、当時、北海道では米の生産がなく、領主松前氏の家計から家臣に対する知行(ちぎょう)禄米(給与)にいたるまで、ほとんどがこのアイヌとの交易利潤でまかなわなければならなかった。

 そこで、特定の産物(交易品)を領主直営の交易品として指定したり、時には産出地帯を直領地として確保したほかは、場所(区域と交易地点)を区画して家臣の知行に当てるようにした。

 しかし、この交易はやがてそれらの知行主から、”運上金”と称する租税、権利金を代償に、経済感覚が武士より優れている商人に再委譲されるケースが多くなったばかりでなく、領主の直領地や領主特定の産物までが、商人の手に委託されるケースが増え、さらに、その場所におけるアイヌ交易ばかりでなく、その場所においてアイヌや和人労働力をつかっての生産行為までも含めて委託されるようになった。

 この、指定され、区画された区域が、”場所”であり、その交易権(やがては生産行為も含めて)を委託された者を”場所請負人”とよんでいる。

 場所請負人は、たいてい松前、江差、箱館に本拠(本店)を持つ富裕商人であった。(なかには松前、江差などがすでに彼等の出先機関であり、近江、若狭、越前、後には江戸などの本州先進商業地を本拠とする大商品が多かった)。請負人が自分の持場所に常住することはまず皆無といってよく、各場所における交易、生産活動の実務は、支配人-通辞-帳役-番人で構成される、場所運営機構がうけもつのがふつうであった。

 また、各場所には通常、場所請負を管理、監督する行政と場所内の治安・司法をうけもつ詰合と称する、幕府の出張役人が常駐していたが、幕府直轄時代はそれが励行されて、民政・治安が比較的行き届いていたが、松前藩政時代は、とかく場所請負機構に放任され勝ちであった。

 場所請負人にとって場所請負とは、請負金(運上金)を超える利潤を生み出すことが目的であり、そのためにさまざまな企業努力をするわけであるが、なかには交易比率をごまかしたり、値の安い粗悪品で交換したり、あるいは労働力を不当に収奪することによって利益をはかることが起こりもした。ただ、ここでは”アイヌ政策史”や ”場所請負と労働”というものを論述するのが目的ではなく、”請負場所”というものが、特定の場所における独占的な経済行為であったことを知ってもらえればよい。

 しかし、北海道がやがて、松前藩の所領から幕府の直轄領、松前藩の復領、幕府の再直轄と、行政制度が変改するにつれて、領主(松前藩や幕府)は、請負人に対して、運上金の納付をはじめ、アイヌの撫育、道路の開削補修、公金公文の逓送、宿泊、休憩施設の築設などを義務づけるようになった。したがって場所請負人というのは、その場所における独占的な経済支配者であるばかりでなく、アイヌや出稼漁夫に対しては、徴税権を持つ行政者として、実質的な小領主とも言える主権者であった。

 次に場所の範囲に言及しよう。場所の区画は時期によって分離、統合など多少の異動があって、明確に区画するのは難しいが、釧路地方の幕末における場所割は、現在の厚岸群一帯がアッケシ場所、釧路支庁管内から厚岸部をを除いて、十勝の足寄群を加えた区域がクスリ場所と考えて大差はないだろう。


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