3.箱館開港とクスリ場所


対清輸出昆布

 クスリ場所は、文政五年(1822)から代々、米屋・佐野屋が請負っていたが、ここで明治直前ころの道東地方を概観しておこう。

 従来の一般的な認識では、松前藩の所領と幕府の直轄という経緯をたどって維新の変革をむかえた北海道は、松前地と呼ばれた道南地方や日本海沿岸漁場以外には和人の定住はみられず、わずかに、ロシアに対する警備を任務とする東北諸藩士の駐屯があった程度とされている。

 特に東蝦夷地は、主としてアイヌ労働を主体とした場所請負人の漁業が営まれていたに過ぎず、和人の定住はもとより”越年稼ぎ”というのでさえ、一冬を限りに交替するのが普通であるとされており、あたかも、”北海道の歴史は明治になって始まった”と認識されがちであった。

 しかし、江戸時代もなかばを過ぎると、貨幣経済の浸透と度重なる飢饉と苛酷な年貢の取立てで階級分化を起こした本州農村では、兆散(ちょうさん)が相ついだばかりでなく多くの賃労働者を生みだしてきていたし、これらの和人労働力の上に豪商や場所請負人の商業活動、生産活動(漁業や林業など)が、北海道を舞台に展開され、さらに、航海術の発達と彼らのバイタリティは、すでに東蝦夷地はもちろん千島や樺太にまでその場を広げていたことは、多くの事蹟で知られている。

 もっともこれらは、家族妻子を含めた”拳家移住”ではなく、農業拓地を目的にした”土着”型の移住でもない。しかし、当時の主産業である漁業をとってみても、春の鰊漁から秋の鮭漁に至る長期の稼働は、もはや単なる出稼ぎの概念を超えた”生活実質の移住”であったといえないこともない。本州の先進農業地における商品農作の発達は、魚粕肥料の需要を飛躍的に増大させ、アイヌ労働を主体にした漁撈、生産ではまかないきれるれるものでなくなってきていたし、漁場も西蝦夷地から東蝦夷地、北蝦夷地にまで拡大し、漁法、漁具の改良による生産拡張の時期に到達していた。さらに、箱館開港による中国向け輸出昆布の生産増加は、昆布漁場を道東海岸一帯に拡張する機運をもたらしていた。

 釧路における状況も同様であるが、ここで蛇足ながら一言つけ加えておきたい。それは、『安政四年、釧路漁場請負人・越後国三島群寺泊村平民米屋孫右衛門、自費南部地方ヨリ五戸十五人ヲ募リ釧路ニ移住セシム』という『開拓使事業報告』の記録をうけて、『これが釧路地方における”和人永住の嚆失”』(『釧路発達史』『釧路郷土史考』など)という記述があることであるし、これらの記述は妥当とはいえない。というのは、請負人の漁場開発の功業を美化したり、賞賛しようとするあまり、読者の認識をあやまらせることになりかねないからである。つまり、”和人永住のはじまり”という表現が、ともすば安政四年以前に釧路に和人の常住がなかったという誤解や、アイヌだけの労働によって前記の生産拡大がなしとげられたという誤った認識を持たせかねないからである。ここでとやかく多言をろうするまでもなく、これより数10年も前に、厚岸には国泰寺が建てられ、僧侶や幕府役人が常駐し、広尾、釧路、厚岸、根室、国後、擇捉の各場所各々にも、役人や請負人配下の番人が数十人単位で常住していることが記録でも明白であるからである。

船舶用石炭の採掘

 箱館開港は、清国に対する輸出昆布の生産増加をもたらしたばかりではない。もともと欧米列国の要求は、東洋とくに中国への市場拡大と北太平洋捕鯨に対する中継や薪水燃料の補給を一つの目的としたものだけにこれら外国船舶に対する燃料としての石炭の採掘が着目されるのは理の当然であり、事実この開港を契機に釧路地方では白糠炭の採掘が始まり、いちはやく世界経済の枠の中に組み込まれた動きをみせることになった。(白糠での採炭は北海道における石炭採掘のはじまりといわれたが、その後箱館への距離や炭質の関係などがあって岩内の茅沼炭へその役割を譲った)ただ、それは近代的な石炭産業の開眼などというにはほど遠い採炭であり和人の職人、人夫若干を先達とし、ほかにアイヌを使役しての原始的採掘の域を出るものではなかった。『掘り方に成り候土人事に慣れずこわがる由』(島 義男・『入北記』)とあり、慣れない仕事に恐怖したアイヌ労働の記録もある。アイヌがあまりあてにならぬとすればあとは囚人と、幕府役人の考えるのはいつも決まっていた。文久元年(1861)からは佐渡や甲州の金山掘りと同じく罪人が地の底をはうようになった。

 『其方儀無宿ノ義ヲ押隠シ地蔵町新次郎ヘ身元請相頼ミ茶屋町茂兵衛方手伝中、座敷ニ有之帯壱筋盗取、(中略)金銭衣類等盗取始末不届ニ付、入墨、敲申付候、但入墨ノ上シラヌカ場所石炭掘り為人足取遣事』 

 と、腕に┓形の入墨をされ、腰に一両二分の金と帳面をくくりつけ、縄つきで護送されてきた。途中の各場所では休み泊りの賄いや草鞋銭を受け取って帳面に記し、順次継ぎ送られてきた。また、こうした罪人ばかりでなく、身持ちの悪いものを親子親類一同が町代、名主の連署で炭山行きを奉行に願い出る例もあった。


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