1.諸制度の改革

(1)国郡の制定


開拓使設置

 明治第一年は戦火でその幕を開けた。前年の慶応三年(1867)十月、時流に抗せず、大政を奉還した徳川氏に対し、朝廷側は十二月、王政復古の大号令を発して、一方的に幕府の廃絶を宣言した。これは、徳川氏の大政奉還策をくつがえして一挙に政権を奪取しようとする薩長連合のクーデターでもあった。

 ここで新政府は、前将軍・徳川慶喜の官位と領地の返上を決定(命令)したが、慶喜がこれを拒んで大阪城に引き上げたので、京都の新政府と慶喜との正面衝突が決定的になった。翌四年正月、大坂から京都に向かった徳川軍は、政府軍の挑発に乗って武力行動をおこした。鳥羽・伏見の戦いである。この内戦で徳川氏に朝敵の名を負わせた新政府は、旧幕府軍打倒の軍をおこし、四月十一日江戸城を接収、七月には江戸を東京と改め、つづいて年号を慶応(四年)から明治(元年)にあらためた。さらに九月には会津若松を陥して、北越・東北の反政府軍を制圧、翌二年五月には、脱走して箱館に拠った旧幕府軍最後の抵抗も鎮圧し、日本全土の統一を終わった。

 当時、イギリスをはじめとする先進諸国では、資本主義の発達による産業革命からすでに一世紀を経て、資本主義もそろそろ独占段階へ移行しつつある時期であった。新政府は一日も早く先進諸外国に比肩できるような近代国家を作り上げることを目標に、中央集権体制を固めて『富国強兵』『殖産興業』『教育進行』を基軸にした諸政策の実施を急がねばならなかった。

 北海道開拓ももちろんその重要な施策の一つであり、すでに東北戦争の最中の慶応四年四月、箱館裁判所の設置を決め、五月一日、官制の改革により函館府として五陵郭に開庁したが、奥羽戦乱、函館戦争にまきこまれて頓坐した。しかし、戦争の帰趨がみえだした頃から再び政府部内の重要議題となった。理由は『北方領土、露人蚕食ノ念止まず』というロシアの南下に対する懸念が主であり、土着民の善導と新たな殖民をもって領土の保全を期そうとした。六月四日(明治二年)、佐賀藩主・鍋島直正を開拓督務(長官)に任命し、ついで七月八日、北海道行政の主管庁として開拓使を設置した。

釧路国釧路郡

 蝦夷地開拓の初政は先ず蝦夷地の名称決定で始まった。”蝦夷地”の名称を改めることについては、古くから識者の間では論議されていた。水戸藩主・徳川斎昭は『北方未来考』の中で、国名は、日出国又は北海道と称し、さらに可知、勇威、十勝の3つに分けることを提唱し、また堀織部正は三ヵ国位に分けさらに郡名を選定するよう意見を出しているこれらの論議が新政府にも承け継がれ、元年三月、太政官会議においても蝦夷地の名称決定が議せられたが、前述の奥羽戦乱、箱根戦争で決定を見るに至らなかった。しかしようやく二年八月十五日になって、『蝦夷地自今北海道ト被称、十一国ニ分割』という太政官布告が出された。

 この国郡の設定と命名については、幕末以来数回にわたって蝦夷地を探検し、その山川地理に詳しい開拓判官・松浦武四郎の意見が多く採用された。松浦は七月一七日、国名に関する意見書を提出、続いて道名、郡名に関し、その由来と詳細な意見を付して献策し、開拓使では、これを基礎に討議を加え、八月十五日をもって布告した。

 釧路国では、当初、白糠、足寄、阿寒、綱尻、久摺、川上、善報、厚岸の八郡が上申されたが太政官布告では善報郡が廃されて七郡、久摺郡の文字も釧路郡と決定された。なお松浦の献策のうち釧路に関する部分を次に抄記しておく。

国名
 越路、久摺、釧路 西トカチ境チュクヘツより東チョフシ迄を一局に仕候(中略)クスリ訳して越路にて、是は訳も音も相叶い候文字に御座候。クシロは越える義、ルは路にて此処より舎利領又は根室領等の常に土人従来の弁利に御座候間此名相起り候事に御座候。又一説にクスリ川上に数ヵ所の温泉御座候、薬水流れ出候より号候とも申伝え候(後略)

郡 八郡
 文字釧を用候は蝦夷人共手首に入用候をテキルンカニと申用居候。即ち釧にて、萬葉にも、久し路つく志のよき等歌有るに付いても古の内地にも用いしこと明らかなり。

郡名 久摺郡
 西ヲタノシケより東コンフイ番屋元川中界に定め(中略)一郡海岸七里十九丁九間(中略)又郡名に釧路の字等如何と泰存候。釧はテクルカニと申し…(後略)


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