ここで新政府は、前将軍・徳川慶喜の官位と領地の返上を決定(命令)したが、慶喜がこれを拒んで大阪城に引き上げたので、京都の新政府と慶喜との正面衝突が決定的になった。翌四年正月、大坂から京都に向かった徳川軍は、政府軍の挑発に乗って武力行動をおこした。鳥羽・伏見の戦いである。この内戦で徳川氏に朝敵の名を負わせた新政府は、旧幕府軍打倒の軍をおこし、四月十一日江戸城を接収、七月には江戸を東京と改め、つづいて年号を慶応(四年)から明治(元年)にあらためた。さらに九月には会津若松を陥して、北越・東北の反政府軍を制圧、翌二年五月には、脱走して箱館に拠った旧幕府軍最後の抵抗も鎮圧し、日本全土の統一を終わった。
当時、イギリスをはじめとする先進諸国では、資本主義の発達による産業革命からすでに一世紀を経て、資本主義もそろそろ独占段階へ移行しつつある時期であった。新政府は一日も早く先進諸外国に比肩できるような近代国家を作り上げることを目標に、中央集権体制を固めて『富国強兵』『殖産興業』『教育進行』を基軸にした諸政策の実施を急がねばならなかった。
北海道開拓ももちろんその重要な施策の一つであり、すでに東北戦争の最中の慶応四年四月、箱館裁判所の設置を決め、五月一日、官制の改革により函館府として五陵郭に開庁したが、奥羽戦乱、函館戦争にまきこまれて頓坐した。しかし、戦争の帰趨がみえだした頃から再び政府部内の重要議題となった。理由は『北方領土、露人蚕食ノ念止まず』というロシアの南下に対する懸念が主であり、土着民の善導と新たな殖民をもって領土の保全を期そうとした。六月四日(明治二年)、佐賀藩主・鍋島直正を開拓督務(長官)に任命し、ついで七月八日、北海道行政の主管庁として開拓使を設置した。
この国郡の設定と命名については、幕末以来数回にわたって蝦夷地を探検し、その山川地理に詳しい開拓判官・松浦武四郎の意見が多く採用された。松浦は七月一七日、国名に関する意見書を提出、続いて道名、郡名に関し、その由来と詳細な意見を付して献策し、開拓使では、これを基礎に討議を加え、八月十五日をもって布告した。
釧路国では、当初、白糠、足寄、阿寒、綱尻、久摺、川上、善報、厚岸の八郡が上申されたが太政官布告では善報郡が廃されて七郡、久摺郡の文字も釧路郡と決定された。なお松浦の献策のうち釧路に関する部分を次に抄記しておく。
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