1.諸制度の改革

(2)諸藩分領


諸藩分領とその蹉跌

 新政府が三大急務の一つとして取り上げた北海道の開拓も、当時の貧困な政府財政では強力な実施は望めなかった。すでに述べたように、当面する北海道対策の主眼は何よりもまずロシアに対する領土の保全であった。従って、新政府の軍事体制がまだ確立されていなかった当時としては、諸藩の持つ武力に期待するのもまた止むを得なかった。

 一方、版籍の奉還で領主権を失いながらなお知藩事として藩政に当たらなければならなかった諸藩主にとって、北海道の拓地経営は、解体された武士団に対する処置、あるいは悪化した藩財政を収拾する意味からも一つの魅力であり、逆に新政府側にして見れば、封建体制を一挙に打破する事によっておこる諸藩主、武士団(士族)の抵抗を緩和し、さらに解体させるべき武力に北方領土の防衛を期待するという巧妙な見せかけの名分にもなった。

 蝦夷開拓が政務の日程にのぼると、水戸藩をはじめ一ノ関、館藩などがさっそく土地の割り渡しを出願した。新政府中心勢力の一つであった佐賀藩も明治元年八月早々と開拓を出願していた。

 明治二年、開拓使を設置した政府は、一部識者の反対を排し、本道中枢部の要地を直轄地として確保するにとどめ、残る北海道の大部分を諸藩、省、士族、寺院等などに分割支配させることにした。この布告と前後して前記水戸藩、佐賀藩などの分領支配が公許されたが、政府はさらに対露領土保全の立場から、金沢、鹿児島、静岡、名古屋、和歌山、熊本、広島、福岡、山口、などの諸藩に対して開拓出願を促し、後には強制的に分領支配を命じ、主として北海道東部、北部などロシアと近接する地帯の防衛と拓地殖民に当たらせた。

 分領支配は、最終的には明治四年の廃藩置県にともなう一斉罷免まで継続するが、二、三の例を除いては当初期待した拓地殖民の成果は挙がらなかった。これは分領期間が短かったせいもあるが開拓を出願した藩はともかく、開拓を強制された藩の多くは、もともと開拓に熱意がなくしかも割り当てられた地域は北海道のなかでも辺境であり、交通運輸の便が悪く、漁業利益も比較的薄いという不利な条件が重なり、さらに奥羽諸藩など多少とも北海道の事情に通じているのは別としても、一般的には北海道の事情に暗く、あるいは漫然と漁業利潤に期待するなど、適切有効な開拓計画を持っていたのはごく稀で、明治二年には早くも鹿児島が十勝、日高五郡の返上を願いでたほか、金沢、名古屋、徳島、和歌山などの諸藩も続々これにならって返上を願いでる始末であった。

佐賀藩の釧路国支配

 諸藩分領による開拓が遅々としてはかどらぬなかにあって、釧路国三郡の支配に当たった佐賀藩の場合は、結果的に成功しなかったとはいえ、極めて積極的に経営に取り組んだ例として特筆されてよい。

 佐賀藩が開拓を出願した意図がどこにあったのかは明確に知る由はない。一般的にいえば新政府の中枢にあって開拓の建議に参画し、初代の開拓長官に任じられた新政府の実力者であり、しかも大藩の藩主として、対露領土保全を最大の使命とする北海道経営に際しては、他藩に率先してその任に当たらなければならなかったという見方も成り立つ。しかし、また別な見方では、長崎に近い地理的に近い条件もあって、貿易とくに”長崎俵物”と呼ばれた蝦夷地産物やその交易については、単なる理解を超えた意欲があったと見られるフシがないでもない。すでに安政四年には、後に開拓判官として札幌本府の建設にあたった藩士・島 義勇に、幕府の調査とは別に佐賀藩独自の調査を命じ、釧路地方にも足をのばして克明な調査を実施している経緯から見ると、佐賀藩の出願が、新政府首脳として領土保全に対する率先垂範とか、他範への道義的責任とばかり見るのはあたらない。むしろ、幕末の独自調査の結果、北海道に対する認識を深め、維新の政局に際して軍事面で薩長両派に立ち遅れた劣勢を、北海道開拓という内政経済面で挽回し、今後の政局運営の主導権を握ろうとした思惑もからんでいたと考えられなくもない。

 推測はしばらく措くとして、開拓使設置の翌八月、釧路国釧路、厚岸、川上三郡の支配が佐賀藩に命じられた。なお白糠、足寄、阿寒三郡支配は最初は兵部省のちに福山省に命じられている。釧路国三郡支配の本拠は厚岸におかれ、釧路には、現弥生町本行寺付近に出張所が置かれていたという。


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