2.真砂町大火


頼りない自治

 「おれたちは北海道一級町の町民よ」と胸を張ったのが明治三十三年。「町のことはなんでも自分達で始末するもんだそうだ。そいつが”自治”っていうもんだってよ。」

 しかし、いくら一級町と胸を張り、自治と叫んでみても、政治に参画できるのはほんのひとにぎりの公民(選挙有資格者)だけ。町民の大部分は、ひともうけをねらってあちこちから集まってきた鉱夫にやまごに漁師に仲仕。利害も違えば、居住区域も生活環境もそれぞれに違った別々の集団である。漁師には漁師の、鉱夫には鉱夫に必要な住居の条件がありさえすれば、公共施設など特に必要とも考えない。早い話が、道路とは、人が通り、荷車や馬車が通ればそれで道路だし、垣根がなければ人の土地であろうと、道路に使って大威張りである。もちろん都市計画といったって出稼ぎ者には無縁の言葉。川の南に家を建てる余地が無くなれば、無秩序に北岸(西幣舞)に移り住むし、雨露さえしのげればという気安さでバラックを建てる。「町のことは自分達で・・・」とはいってみても、施設をよくするには金がかかるし、「金のかかることは嫌(いや)」ということになれば、道路は細くてでこぼこだし、水道はおろか消火栓もないのは当たり前である。明治三十一年、それまでの私設消防組に変わって消防組が公設されることになったが、それは必ずしも防火意識や自衛消防機能の高まりを意味することではない。協議費(町内会費のようなもの)のやりくりで組員を百名増員して、総数百八十一名、三部制の消防組に腕用ポンプ三台の装備で、北海道一級町・二千百二十九戸、一万三百九人の釧路町を火から守ろうというのだから、まことにお寒い話であった。

中心街炎上

 はたして猛火がこの町を襲った。明治三十四年十一月十四日。

 凩(こがらし)がうなりを上げて街なかを吹き抜けていった。しばらく雨も降らず、空気は乾ききっていた。火が出たのは夜の九時過ぎ。この風では外出もならず早めに寝についた人が多かった。火元は、洲崎町二一五番地(現大町六丁目)の大工職・土田与吉の家。乾燥した空気と二十メートル近くの強風で、気付いたときはもう手遅れであった。狂ったようになり続ける半鐘の音に煽(あお)られるように火はたちまち真砂町の崖下まで燃え広がっていった。火の手はさらに崖下に沿って南北に延び、洲崎町、真砂町はまさに火の海。寝入りばなを起こされて着のみ着のままで逃げまとう人たちを焦熱地獄にたたきこんだ。

 当時釧路町は戸数二千二百四十一戸で、そのほとんどがこの付近に密集し、ところどころに土蔵造りの老舗もあったが、大半は木造マサぶき屋根のひしめく状態だったから、たきつけに火を付けたようなものである。炎が風を呼び、風が炎をつのらせて阿修羅の様に燃えさかった。

 崖下に追い詰められた人達は、争ってガケをよじ登ろうとしたが、その崖の枯草もたちまち猛火になめられて、すがるすべもないありさま。

 結局、二百三十棟六百六十戸を焼き尽くし、死者三人、負傷者数十人という犠牲を出して、橋南の下町一帯は見るも無残に焼けただれてしまった。


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