1.釧路町誕生


拓殖の進展

 明治二十五年七月、北海道庁に就任した北垣国道は、翌二十六年、井上内務大臣に対し、「北海道開拓意見具申書」を提出、明治二十七年より三十八年に至る十二年間に総額約一千五百万円に及ぶ国費を投じて開拓を促進しようとした。しかし、折しも日清戦争がおこって計画の実施は見送られ、わずかに計画の一部である空知太(岩見沢)〜旭川間の官設鉄道の敷設が二ヵ年の継続事業として決定、ついで戦後の明治二十九年に北海道鉄道敷設法が公布されたに過ぎなかった。

 しかし、北海道鉄道敷設法の公布によって、旭川を基点とし、十勝平野を横断して釧路に達し、さらにここから標茶を経て、一方は厚岸から根室へ、もう一方は網走から北見へ通ずる路線が、第一計画路線に指定され、まず明治三十年、旭川口から工事に着手、一方釧路〜帯広間は、三十二年に実測を開始し、翌三十三年五月、釧路から白糠に向けて建設工事が開始された。

企業熱勃興

 さて、日清戦争の勝利によって日本経済は一種のブームにわいた。紡績、製糸、織物、製紙、鉄道、海運などに対する投資が増えて産業は急速に膨張した。こうした企業熱の勃興はとうぜん北海道にも波及し、府県資本家の北海道に対する資本の投下と、在地資本家の企業投資が急速に進み、同時に移民の増加が促進した。

 釧路地方では、明治三十二年、貴族院議員・男爵・前田正名(阿寒町・前田一歩園主・前田光子の岳父)の創立する前田製紙合名会社の創業開始とその後につづく鉄道の枕木の伐り出しによる”木材ブーム”が特筆される。

 国内経済の発展はまた、資本家の政治的地位を向上させ、企業熱の勃興にともなう移民の増加、市街地の拡大、形成によって、自治制への要望が急速にたかまり、この結果、北海道庁の行政(統治)機構にも大きな改革が加えられた。郡役所の廃止と支庁の設置、北海道区制、北海道一・二級町村制の公布や北海道会法の北海道地方費方の公布がそれである。

北海道一級町村

 明治三十年五月、政府は勅令をもって北海道区制、北海道一級町村制、北海道二級町村制を公布(施行は三十二年以降)、同年十月、従来の郡区役所を廃止して支庁および警察署を設け、支庁長、警察署長をそれぞれ任命し、全道一円にわたって行政事務と警察事務を分離した。

 こうして北海道は、札幌、函館、亀田、松前、桧山、寿都、岩内、小樽、空知、上川、増毛、宗谷、網走、室蘭、浦河、河西、釧路、根室、紗那の十九支庁に分割され、三十二年十月から、北海道区制の施行により、札幌、函館、小樽の各区は支庁の管轄を離れて自治制を施行するようになった。この後も支庁の廃地分合が行われるがそれについては省略する。

 続いて明治三十三年三月、さきに公布した北海道一級長村制を改正し、同年七月、亀田郡大野村をはじめ、福山町、福島村、上磯町、江差町、寿都町、岩内町、余市町、岩見沢町、室蘭町、伊達村、増毛町、稚内村、釧路町、厚岸町、根室町を北海道一級町村に指定した。

 これらの町村は先に区制を実施された札幌、函館、小樽についで、比較的早く殖民の進んでいた地域で、そのほとんどが臨海の集落であり、内陸部では旭川、帯広などですらまだこの指定を受けるだけの集落(市街)が形成されていなかったことを物語っている。

 (一級町村より小規模の村落には二級町村制を実施し、さらに以下のものについてはひきつづき戸長を配置し、支庁〜戸長役場が行政を管理していた。)

 釧路では七月一日、北海道一級町村制を施行、八月三十・三十一日の両日にわたって町会議員の選挙が行われ、十六人の町会議員が選ばれ、この町会が町長(候補)として白石義郎を選挙し、北海道庁長官の認可を得て就任した。

 制限つきの自治ではあったが、北海道一級町村となった釧路町は、ここに公法人としての資格を得、自らの意思で町づくりに踏み出すことになったわけである。当時、戸数は二千百二十九戸、人口一万三百九人であった。

 町役場庁舎は、当時まだ幣舞町にあった釧路支庁(旧釧路郡役所)の一室に間借りしていたが、三十四年一月七日から、洲崎町一丁目一番地の、安田倉庫(元鉄道部跡)に移転し、執務していたが、同年十一月、真砂町の大火で類焼し、翌三十五年六月に二十二日、一時仮住まいの実業倶楽部を引払い、洲崎町埋立地の八十坪の新庁舎に移転した。

 この町役場庁舎はその後米町に移設されて貸座敷業組合事務所兼診療所として利用され、戦後、「日之喜会館」として町内の集会所として活用されていたが今はもうない。


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