ここには、現在でも「洲崎町内会」という旧名を町会名にしている町内会もある。最近、道路の拡幅、舗装と、住宅の新築、改装が進んで、町並みもすっかり近代的になったが、以前は、露路のそこここに軒の低い、古い家並みが見られ、なぜか、家々の前や裏に飼犬の姿がめだつ町であった。「オダイトはナマ臭くて、人間より犬の多い町よ」と酷評する人さえいたという。
まさかそれほどではないだろうが、この言葉にはそれなりの理由があった。
川口近くに広く突き出た砂州は、手漕ぎや帆かけ舟の時代には、漁船にはかっこうの舟着き場、船揚場であり、魚の始末、網の始末に最適の場であった。だからこの町は、明治三十六年に埋め立てが完了して新設された「入舟町」とともに、釧路漁業を支えた漁師の町であった。魚の水揚げ、加工処理、魚臭の残る網干しが続けば、街中にナマぐさ味がただようのはあたりまえであり、魚を積んだ荷車の小運搬動力?や干場に干した魚や魚粕を、猫害や悪童、悪盗から守るための忠実な番犬としてワン公たちが重宝がられたのもまた自然である。
ところで、明治三十年代は釧路の漁業勃興期といわれている。それまでの漁業の形態は、春に鰊、夏に昆布、秋には鮭(秋味)と、いずれも前浜漁業が主体であった。佐野家没落のあと、この釧路漁業の主導権を握ったのが、武富善吉や豊島庄作、前田栄次郎などであった。硫黄の移・輸出が増え、春採や別保で石炭が掘られ、天寧(てんねる=東釧路)に製紙工場が建つようになっても、漁業はやはり釧路経済を支える一番大きな柱だったし、大漁業家の栄燿栄華は揺るぐべくもなかった。
”投げれば立よなドンザ着て
釧路浜中ブーラブラ
後から掛取りゃホーイホイ”
むかしから北海道中の主な漁業地でよく唄われた俗謡である。歌詞の中の釧路を、岩内、余市、忍路、石狩、厚田、増毛、厚岸と適当に変えてどこの漁場でもうたわれたものである。
今ではほとんど見ることがなくなったが、その当時の浜(漁場)にはいつもこのドンザを着た漁師の姿があった。
漁師に掛取り(借金取り)がつきものというわけでもあるまいが、ひと網当たれば大儲け、はずれれば借金だけが残るという”水商売”を諷刺したり、先々の水揚げを当てにして”付け馬”付きで豪遊する漁師気質をうたったものであろう。ともかく、漁師は好んでこのドンザを着ていたし、それが親方たちや大船頭たちの着用するものになると、ずいぶん手のこんだ、ぜいをこらしたもので、それこそほんとに脱ぎ捨てればそのまま立っていそうなものであった。
細かい柄(がら)の久留米がすりを絹子町(糸)で丹念に刺し、ムジリ(角袖)に仕立てたドンザを着、腹には太い兵児帯(へこおび)を巻つけた姿、これが当時の親方たちの制服みたいなものであった。
そのうえ親方たちはなかなかお洒落(しゃれ)であり、伊達(だて)であった。太いチリメンの兵児帯には、当時はまだ珍しかったウォルサムとかロンジンなど、舶来の二枚ぶたの懐中時計がかくされ、金鎖が派手にからまっていた。腰に下げた煙草入れがまた凝(こ)っていた。煙管(きせる)は雁首と吸い口が金張り、なかは銀無双と豪儀である。かます(刻み煙草を入れるもの)は、雲龍などをあしらった本場ものの印伝(いんでん)のなめし革。象牙のキセル筒に珊瑚(さんご)か瑪瑙(めのう)の根付をつけ、節くれだった太い指には、いい合わしたように、印形(いんぎょう=印鑑=)を彫り込んだ金の指輪が光っているという具合である。
こうなればもう仕事着や制服というよりも、漁師の礼装であり、伊達着(だてぎ)といってもよく、じっさい親方たちはこのいでたちで料亭へでもどこへでもでかけていった。
この漁師たちは、たいていこのオダイトや川上に居をかまえた。風で柾のとぶのを防ぐため、屋根に玉石をごろごろ置きならべた漁師の家がめだってふえ、家のまわりの空地にはひらき鱈が干されたり魚粕のムシロが敷き詰められた。
男どもが漁を終えて浜に返ってくると、今度は漁師のおかみさんたちの出番であった。おかみさんたちはたいてい、三角におった風呂敷でほほかぶりをし、カスリのサシコを着て、細帯に越後縞(えちごじま)か何かの前垂れ掛けといういわゆる”五十集屋”(いさばや)スタイルで、獲物を魚篭にいれ、天秤(てんびん)で街を触れ売りしていた。
「タツやータツ。買わねばー腹立つ」
(タツ=タラやスケソの白子で、龍に似ていることからそう呼んでいる。味噌汁、醤油汁など汁の実として美味)
越後の毒消し売りの伝統を身につけたせいであろうか、おかみさんたち越後女の触れ売りはなかなか堂に入ったもので、街のそこここから手籠やざるを抱えたおかみさん達が、道ばたに出てきて顧客になった。
魚の売り方も、もちろん現在のようにキロ売りなどと洒落てはいない。タラ、カレイなどの大きな魚は、一本いくら、一枚なんぼで売り買いしたが、ハタハタなどは十銭に何尾という売り方であった。
「ハアー。ひと〜〜、ふた〜〜、三つ〜〜……」 と単位銭ごとに尾数を数えながら、魚篭からざるに移す彼女達の手さばきは、まことにす早く、それでいて一尾の間違いもなかった。
「ハイッ、おまけだよ。」と、まだピチピチ生きている魚を何匹かサービスさせれば、「オヤ、どうもどうも。またイキのいいのがあったら持ってきてや」と、おかみさん達も如才がなかった。
エビや貝類、タツ、安い小魚などは、たいてい山平皿一杯いくらで売り買いするのがふつうであった。今でこそ、高級魚として庶民には”高嶺の花”のシシャモも、当時はあまり見向きもされず、四斗樽一杯が上物で三十五銭くらいで、もっぱら魚粕に炊かれていた。
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