「安田馬鉄」がお目見えしたのは明治二十三年のことである。もっとも安田は、すでに明治二十年に標茶と川湯硫黄山間に本物の鉄道汽車を走らせているわけだから先に述べた硫黄運搬のトロッコ軌道や、この鉄道馬車などは子供だましの類の様なものであったろうが、軌道を敷いてその上を重量物を牽引して(たとえ馬力でも)移動させるという概念は、当時の日本人にとってはまさに文明の先端をゆく一大科学の所産であった。だから東京の新橋〜浅草間の鉄道馬車が、乗客と見物の野次馬でゴッタかえしの盛況を呈したのも無理はない。まして、出稼ぎ者の寄り集まりでしかなかった当時の釧路ッ子には、まさに”コペルニクス的転換”の出来事であった。
路線は、春採湖の西岸・沼尻を基点にして千代の浦を経て弥生町に上り、米町本通りをとおって知人の港頭貯炭場に達する二キロ余の鉄路であった。
安田が明治二十年に春採炭山を開抗したのはすでにのべたが、炭層に恵まれた春採坑は出炭量もうなぎのぼり、釧路鉄道、標茶精練所などの自家用消費をまかなってなおあり余る石炭を、汽船燃料に売ったり、他に移出する必要にせまられて、港頭への運送手段をこの鉄道馬車に求めたわけである。
安田の馬鉄の着想はやはり新橋〜浅草間の鉄道馬車にあったようだ。軌道施設に当たった現場技師(大日方市輔)が頭を悩ましたのは軌道の勾配にあったという。千代の浦海岸では、高波を警戒して一メートルの高架軌道を作り、弥生町から米町へ坂道を上って、米町入り口から知人貯炭場までの二百メートルの下り傾斜は、地上二メートルの高架と、技術的にはなかなか苦労が多かったようである。しかし、それよりも手を焼いたのがトロを曳く馬集め。後に馬産王国を誇る釧路もその頃はまだ馬産皆無の状態で、遠く北見や日高に人を遣(や)って力のある馬を探して買い集めたという。
台車は一台が0.7トン積みで、一頭の馬がこの台車を五台から十台引っ張った。一日の運行が平均五〜六回だが、ヤマに貯炭があり、港に積込みを急ぐ船が入れば、馬鉄は、馬の鼻先にニンジンならぬカンテラをぶら下げて深夜運行というしだいであった。
当時、”馬車追い”たちの間には、「春採湖にボラが上がったら運転は中止」という不文律があった。この当時、春採湖は海とつながっており、海がシケればボラがよく岸に打ちあげられた。千代の浦海岸では高波が軌道を洗って危険になるため運行は中止、というわけであった。
馬鉄が一年で一番もてはやされるのが炭鉱の”山神祭”。炭カスをきれいに洗い流したトロッコには造花やチョウチンが飾りつけられて文字通り”花馬車”。街の名士やキレイどころを乗せて走ったものである。
「安田の馬鉄」は、炭鉱が安田の経営から木村組炭鉱となり、やがて太平洋炭礦の時代になって、釧路臨港鉄道が汽車で石炭輸送を始めるまで、春採炭の港頭積み出しの大動脈であった。
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