4.米町・真砂町界隈

(3)寺町と学校


法燈と紅燈

 ”法燈の陰に紅燈あり”とかいう。天台宗大本山・比叡山(延暦寺)麓の坂本遊廓をはじめ、古来名のある神社佛閣の近辺にはなぜか遊興施設が多かったようである。禁欲の修行を強いられた僧侶たちが、厳しい戒律を破って人間本能に目覚めたとき、あるいはまた、”神詣り””佛詣り”を理由にしなければ、旅もなかなかままにならなかった昔の人が、”旅の恥はかき捨て”とハメをはずしておすがりするのが、法(のり)のお山の麓にいます生ま身の”観音様”の御胸だったようである。

 米町遊廓が、遊廓区域に設定されるのは明治三十三年であり、この区画がまた釧路の「寺町」と隣り合わしている。しかしこの廓は佛参や信仰と結びついて成立したものではない。すでにみてきたように、釧路は、米町付近を中心にして人が住みつき、移住者がふえるにつれて街を広げてきた。そこに神社が祀られ、寺がたてられてゆくのもまた当然であり、街なかに料飲店や貸座敷が開店、営業していたことも前に述べた。

 村が町になり、やがて公共団体(自治体)として、住民自らが町の経済、教育、文化などもろもろの問題を自らの手で治めなければならなくなったとき、必然的に起こるのが町の風致である。釧路町は、当時まだ市街地とは連亘(れんこう)していなかった鬼呼(おにっぷ=現弁天ケ浜)海岸寄りの谷間(たにあい)を埋めて土地を造成し、貸座敷という遊興施設を移転させ、町の風俗風致を保つことにした。おかげで弁天さん(厳島神社)の神域も寺々の境内も、まだ充分尊厳と敬意を保持して、町の人々の信仰の聖域たるに恥じなかった。寺町と廓との境界が不分明になるほど人家が建てこむようになるのは、時代がもう少しあとで、釧路が町から区、区から市になる頃のことになる。

 さて、寺町界隈の逍遥を続けよう。

 米町本通りを弁天ヶ浜に向かって行くと、右側の高台に、巌島神社、法華寺、大成寺、定光寺、西端寺がいらかを並べ、通りを一本隔てて弥生町に本行寺聞名寺が並んで建っている。

 巌島神社。釧路の人たちには”弁天さん”といったほうが通りよい。”弁天さん”の名が示すように、祭神の一柱は”弁財天”つまり市杵島姫命であり、明治以前に釧路の漁場持・佐野孫右衛門が、海の安全豊魚を祈願して安芸の宮島の神霊を勧請(かんじょう)したものだという。祠は、当初、釧路会所付近に創建されていたが、市街地の拡大につれて遷座の必要がおこり、一時期、大成寺が奉祀していた金毘羅宮と合祀し、明治二十四年二月、現在地に本殿を創建して遷座、同年五月、「郷社」の社格を得、釧路の「氏神様」として住民の尊崇を集めた。

 ”弁天さん”や各寺院の来歴をここでこと細かく述べるつもりはないが、寺のうち一番早く開山したのは聞名寺で、明治八年、佐野孫右衛門が函館東本願寺別院聞名坊の住職を招いて説教所を開設したという。後十一年聞名坊として開山、十三年に聞名寺と寺号を公称した。

 もっとも寺といえば、厚岸にはすでに文化二年(1805年)に国泰寺が設置されているが、これはいって見れば鎖国下の徳川幕府が、自ら施主となり、権力をもって異宗外国勢力の浸透を防ぎ、アイヌの教化と出稼ぎ和人の定着をはかるために創建した政策的な「行政寺」の性格を持つものである。

 明治になって、さまざまな人が、さまざまな土地から釧路に入ってきた。禅宗の人も居れば法華信者も居るし、門徒衆もいた。それぞれ自ら信ずる教義を念じて菩提を葬らいたいと願うはずだし、各宗派の寺院は新開地に寺壇を拡張しようと力を居れるのは当然である。聞名寺につづいて、明治十三年に日蓮宗の法華寺が寺号を公称、十七年には大成寺(浄土宗)、定光寺(曹洞宗)が開山し、さらに三十一年には本行寺(浄土真宗)、翌三十二年には西端寺(真言宗)が寺号公称を許可されて、移住民の定住を宗教的側面から支えていた。

日進学校

 ここで聞名寺の説教所について少し述べよう。明治八年、佐野氏が説教所を開設したことはいま述べたが、ここの住職の永福法随(のち藤法随と改名)が、境内に寺子屋を設けて近所の子弟に学問を教えたのが、釧路の児童教育の始まりとされている。(もっともこれより先、明治五年、桂恋村の観音堂で寺子屋を開いたという記録もある)

 聞名寺説教所の寺子屋はやがて、位置を変え、建物を変えたりして、公立の「日進学校」に発展していくのであるが、その経緯については、古くからの諸記録や最近の研究者による追跡調査に少しづつ差異があって、断定できない。現在佐野碑園内に「丸太学校跡」の案内板があり、「日進学校」への足どりを説明しているが、「開拓使事業報告」には、根室の公立「花咲学校」の頃には、明確に「丸太組み云々」の記載があるのに対し、「日進学校」の構造については特に記されていない。なお、ここでいう「丸太学校」の「丸太」も、通常「粗雑」を意味する形容詞なのか逆に、当時、開拓使が奨励していた、ロシア風の丸太組み防寒構造を意味するのかもまだ研究、論議の余地はありそうだ。筆者の見解は、当時道東(開拓史根室支庁)の首府であった根室の「花咲学校」丸太組みは、開拓使奨励の防寒建築の意味があるようだし、「日進学校」も、「花咲学校」や厚岸の「朝曦学校」と肩をならべる道東の「名門校」であり、学校建築費(寄付金)の額などを考えれば、”粗雑”意味する”丸太学校”というよりは、耐寒構造の意味合いが強いのではないかと判断している。

釧路英和女学校

 東栄小学校から波止場入り口に向かって坂道を少し下ると、左側(弥生町)に日本聖公会釧路教会がある。

 釧路最初のキリスト教会として、ここに礼拝堂がたてられたの明治二十一年のことである。釧路聖公会と称していた。釧路聖公会は、その布教活動の一環として翌二十二年、同所に「釧路英和女学校」を、さらに二十四年、春採のアイヌ部落に「春採土人学校」を創立し、女子教育とアイヌ人子弟の教化につくした。主任教師は英国人宣教師のルーシー・ペイン女史であった。

 釧路英和女学校は、開校時、生徒が九名でうち四人が寄宿生であった。最年長者は十六才の有馬ミサオで、当時の公立釧路病院(いまの米町児童館のところにあった)の院長・有馬元函の娘で、開校の翌二十三年、釧路英和女学校の初穂として受洗している。

 余談ではあるが、釧路病院長の有馬氏は、日露戦争当時、旅順港閉塞作戦の参謀をつとめ、後に海軍大将となった有馬良橘の父であるから、ミサオとは兄妹ということになろう。

 釧路英和女学校は、明治二十八年、釧路女学校と改称され、釧路の女子初・中等教育に貢献したが、教会側の理由で、明治三十一年在校生三十数名を残したまま惜しくも廃校した。

 一方、釧路土人学校は、明治二十四年二月、春採のアイヌ部落中央に設立された。主任教師(校長)はやはりペイン女史で、開校時、児童数は十七名であった。

 翌二十四年、函館湯川小学校に職を奉じていた永久保秀二郎が赴任してきた。永久保秀二郎は、大正十三年に退職するまでの三十三年間をアイヌ人の子弟教育に捧げた人で、現在、学校跡地とされる所(観月園入口)には、翁の頌徳碑が建てられている。

 春採土人学校は、明治三十三年、私立春採尋常小学校と改称、三十九年には廃校されて、釧路第三小学校(現東栄小学校)となり、四十年、公立の春採尋常小学校に吸収合併された。


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