4.米町・真砂町界隈

(2)港街の芝居小屋


釧路埼灯台

 知人岬の頂上に釧路崎灯台がある。設置されたのは明治二十三年九月一日である。木造八角形の構造で等級は六等級。光源はシルベル灯ではあったが、釧路港の将来を指向する力強い光明を点じたものといえよう。同年十二月、特別輸出港の指定も受けた。安田の硫黄輸出に対応する行政措置である。

 こうなると、釧路はもはやかつての昆布漁場・クスリではなくなった。すでに明治二十一年には、函館の金森汽船が函館〜釧路間に定期航路を開設するほど貨物や乗客が増えてきていたし、こうした外来船には負けじと、地元資本の汽船会社「釧路汽船株式会社」が設立された。もっともこの地元汽船会社、せっかく造って就航させた「釧路丸」(百八十トン)を、たった二航海目で座礁沈没させてしまい、会社は倒産の憂き目にあったが、とにかく港町・釧路はようやく活気を浴びてきた。これまで自然港湾としては厚岸、根室に劣り、行政的地位でもその後塵を拝してきた釧路が、、厚岸を追い越し、根室と肩をくらべるにぎわいを見せてきたのがこのころである。

 かつて、佐野孫右衛門の漁場で船頭をつとめ、佐野の没落後独立して漁業を営んで財をなした前田栄次郎が、海運業を始めたのが明治二十七年であった。

 きかん気の前田は、函館の業者に牛耳られていた海運の状態に業(ごう)を煮(に)やし、二百六十トンの「大亀丸」を買い入れて、函館〜釧路〜霧多布間に定期航路を開いた。とうぜん、既存業者との間に激しい運賃競争がおこり、乗客の奪い会いがおきた。函館〜釧路間の運賃が八十銭にまで下がり、草履(ぞうり)や団扇(うちわ)を景品に出して客寄せにつとめたという。当時の(明治三十年)通常運賃は、函館〜釧路間の並等(普通)で二円五十銭であった。(『北海道殖民状況報文』) 当時の交通機関と言えば、歩くか船で来るしかない時代のことだから、ありとあらゆる職業の人がみな船に乗り込んできた。農民がいれば出稼漁夫があり、職人も商人も芸人も女郎も、とにかく少しでも景気の良いところを目指して渡ってくるのである。

 まだまだ釧路に永住しようなどというという気はさらさらなく、何とか新開地で金儲けを、と考えている人がほとんどであった。工事場を渡り歩く大工、左官、柾屋、はては裸一貫の土方、仲士など、雑多な人がはいりこんできた。”目の寄るところ玉”と、こうした人達のあとを追うようにして繰りこむのが芸人や酌婦たちであった。

ドサ回り

 ところで、釧路で小屋掛けの芝居が見れるようになったのは、明治二十四年に米町の法華寺の坂下で、博徒・高木佐吉の子分の成田三太郎が成田座を建ててからであった。

 当時、中央では歌舞伎座、市村座が開館(明治二十一年)、二十四年には”オッペケペー節”でならしたもと自由党員・川上音次郎が”経国美談”や”板垣君遭難実記”などの壮士芝居で売り出していた。

 だが、いかに景気が良いといっても、たかだか人口数千の田舎の港街である。常設芝居小屋ができたといっても、芝居がかかるのは年に数回という時代である。市川なにがしとか中村△△△と、当時名代の大俳優の名前をもじったドサ回りの一座がやってくるだけである。

 小屋の回りに幟(のぼり)を押し立てて、笛や太鼓で景気をあおってみても、ドサ回りの悲しさ、演(だ)し物も壮士芝居の”板垣君遭難実記”などを上演したって観客の集まる道理がない。それよりも、梁(はり)からつり下げられた百匁ロウソク、かぶりつきにずらりと並んだロウソクの光の輪の中で、ドサ回りの市川△△△丈の扮する自雷也が、口を”への字”にゆがめ、赤や黒でくまどりした眼をギョロリと客席に向けて大見得を切れば、ランプの客席から、塩から声で”日本一”の声がかかり、おにねりの祝儀(はな)が飛ぶ、という、やはりまだ、文化と縁遠い、北の果てのみなと街・釧路であった。


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