4.米町・真砂町界隈

(1)商家と妓楼


移民増加

 米町・真砂町から北西方向に人家の連なりをみせはじめた釧路は、新たに洲崎、浦見、幣舞町(字)名呼稱を許可され、さらに釧路川には、民間の手による有料橋であるとはいえ、「愛北橋」が架設されるほど市街の体裁を整えるようになってきたが、それではその町並みとはいったいどのようなものかを、商家の開業、開店の模様を通じさぐってみよう。

 たびたび述べるように、当時国内は”松方財政”といわれたデフレ政策の強行で不景気がつづき、おかげで下級士族は完全にお手上げ。農村は農村で、自作から小作へ、小作から日雇い(賃労働者)に転落する者が相つぐ状態であった。

 いっぽう、こういった事情を背景にして北海道開拓も大きな転機をむかえることになった。維新以来約二十年、開拓使、三県時代と試行錯誤を続けた北海道開拓行政も、明治十九年北海道庁設置という拓殖行政の一元化で新しい資本主義成立段階の開拓に対処した。岩村初代道庁長官も、従来の海産偏重の開拓から内陸資源の開発を意図し、さらに、「自今以往ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン。是ヲ極言スレバ、人民ノ移住ヲ求メズシテ資本ノ移住ヲ求メント欲ス」と、植民の方針をのべ、「経済ノ原理ニ背キ、収支相償ハザル」官営工場の払下げや、資本に保護助成を加えたり、道路、港湾等産業基盤整備を重点施策として資本の誘致をはかることにした。

 たしかに、従来の様な保護移住政策をとらなくても、資本が北海道に投入されるとなれば、そこは不景気の世の中、”どうせクニにいたってウダツのあがるわけでないし”、それどころか祖先伝来の土地さえ手放さねばならぬほどの苦境にあえぐ人たちが、”松前でひと稼ぎ”と考えるのはあたりまえ、なけなしの金を握ってショッパイ川(津軽海峡のこと)を渡るのであった。

 こうした移民の門戸はいうまでもなく港である。函館、小樽、室蘭、留萌、増毛、天塩、広尾、大津、釧路、厚岸、根室など、かつて鰊や鮭、魚粕、昆布、鹿皮等を積み出した港がこの移民の上陸地になった。とりわけ、鉄道がなく道路もまだ整備されていない当時は、河川交通という輸送手段を持つ河口港が、内陸への門戸に最も適していた。東北海道では十勝川河口の大津や釧路川河口の釧路がそれであった。とくに釧路川中流の標茶では、権力による囚人の集団移住(強制収容)があり債権回収のために短期商戦をもくろんだ安田の近代的投資がかさなったのである。年によって違いはあるが、最高時一千四百人を超える囚人と、三百名余の看守の集団、これだけでも当時とすれば数村並みの人口である。これに安田の事業関係者が一挙に入り込むのだから、まさに”踵を接する”繰り込みといってよかった。

相次ぐ開店

 標茶の賑わいは門戸・釧路の殷賑につながった。囚人や看守をはじめ安田の社員や労務者、鳶の者や大工、左官、土方はては酌婦、女郎までもみな釧路まで上がって標茶に向かうのだから、港・釧路でもまず旅館、料飲店が繁昌するのはあたりまえであった。また人の動きは当然物の動きをともなった。生活物資、建築資材、生産用具など雑多な物資を供給する商業が起こり、運送業、小工業なども成立した。集治監や安田精練所などの大口需要を直接賄(まかない)きれる商業機能は、当時の釧路にはまだなかったが、それでも箱館〜標茶の中継商業の頻度が増し、また釧路での需要の伸びを見越して、従来の出張御用聞きから店舗を張っての販売にきりかえる者も多くなった。

 明治十七・八年ごろから出張販売にきていた菊地善一郎が、明治二十年真砂町に店を構えたのをはじめ、近江商人・土田杢平が呉服屋を開業、渡辺重蔵も行商の足を洗って店舗を張った。明治二十一年になると、鳥取移住者の子・尾崎常次郎が、先代定次郎の商売(豆腐屋『因幡屋』)のほかに雑穀屋も兼業、翌年には「亀遊」「白露」で知られた酒の醸造販売もはじめた。また逆に、釧路地方の産物を買い付けに来ていた人達が店を構えて本格的に商売をしようとしたのもこのころである。海産物の小松幸吉、毛皮、海産物の斎藤栄太郎らがそれであった。

 二十二年には、二代目佐々木与兵衛が先代の事業のほかに魚網漁具の販売店を開き、広業商会社員として 昆布の買い付けに敏腕をふるった佐賀県人・中川久平が、早くも釧路の繁昌をみこして厚岸から釧路に転住、真砂町で呉服雑貨店を開いた。西村真吉が金物店を開業したのもこの年であった。

 翌二十三年、別途前(べっとまい)で牧場をやっていた石井惣五郎が肉屋を開業、翌年にはこれも鳥取移民の一人・福井邦雄が酒類、米穀雑貨店をひらき、秋田方面にまで産地買付けをするほどになった。

 明治二十五年になると出張販売をつづけていた大阪商人・中西六太郎が店をかまえ、馬場吉郎も雑貨店を開業した。

 このような個人ばかりでなく、すでに明治二十年には名古屋の愛北物産合資会社が真砂町に店を構え、酒醸造、米穀のほか海産物などを手広く取扱い、さきに述べた有料橋・愛北橋を自費で架設するほどの打ち込みようであった。

 旅館は明治初年、駅逓(人馬継立業)が旅篭代をとって兼営していたが、明治十年には現在の法華寺のあたりに小林旅館ができていたし、その後、米山旅館、カネ吉旅館、(伊勢重兵衛)などが、頻繁な旅客の宿泊をまかなっていた。

料亭と妓楼

 宿場に食い物屋はつきものだし、人の集まるところには見世物もできる。明治二十二年、越賀戸が寄席のかたわらでそば屋を開業し、同じ頃、旅役者あがりの中竹某も休坂(やすみざか)下でそば屋をやっていたという。寿司屋の若竹ができたのもこのころであった。その後、黒田のそば屋、カネ林、あけぼののそば屋も相ついで暖廉(のれん)をあげている。料理屋は、明治十八年ころ真砂町でヤマ田料理店を開いた田中金吉などが古く、二十一年になると、マルコ喜望楼、清月、マルサなどが開店し、地元の大漁業家や金回りのよい客に三味線をひいていた。

 飲み屋で一杯ひっかけ、”北山の腹”が蕎麦でくちくなれば、新開地の出稼ぎ者の足の向くところは廓(くるわ)と相場が決まっている。その昔、”女郎もまた開拓の一助”と開拓使のお偉方がのたまったように、草小屋で狐か狸のような壮絶な営みを重ねて出稼ぎ者の足をつなぎ止めていた由緒ある貸座敷は、明治二十年ころになると、カクサ、清月、種子ヶ島、昇月、カネウロコなど五軒にふえ、草小屋の昔とはケタ違いに、あたりの商家を圧倒するかのような立派な構えに変わっていた。デフレの状況で売られてきたのであろう、貧農の娘か没落士族の子女のなれ果てとも見える娼妓が約三十人、安っぽい脂粉と熟柿のような酒のにおいの漂う座敷で、出稼ぎ者の懐からなんとかアブク銭をはき出させようと懸命に媚(こび)を売っていた。のちに遊廓地となった米町四丁目は、この当時はまだ東西の山間(やまあい)にあった沢のようなところであり、人家といえば浜辺にそってアイヌ小屋があるだけで、狐や狸の棲んでいた時代である。その米町の谷に近い貸座敷の中では、客と女郎がたわむれ合い、座敷の外ではほんものの狸と狐が化かし合いを演じていたのかもしれない。


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