かわる釧路川口の景観


日本最東の円空仏

 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。
 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。
 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。

豊浦の洞窟で彫刻

 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。
 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。

会所の弁天祠に安置

 さきの(1)は、有珠・善光寺、(2)は不明、(3)は釧路・厳島神社、(4)はケボロヰに朽ちてのこり、(5)は苫小牧・樽前神社にのこされている。ケボロヰの洞窟にのこる仏像を釧路に移したのは松田伝十郎(仁三郎)である。仁三郎が持場を巡回したとき、洞窟の中で四体の仏像(1体は「ゆうはりたけこんけん」と記録)を発見した。そこで、「右仏の時節到来して世に出しと奉行へ届置て、其の仏の背にほり付けある山々へ送りて安置す」とある。寛政11年のことであった。実に造像されてより131年ぶりに目的の地に安置されることになった。

出張役所できる

 場所請負人の廃止。漁場の経営。幕府の所有船や雇い船での商品輸送。アイヌと幕府間の直接交易。このために配置された人や施設について調べてみよう。今まで、船に上乗役などで交易の時だけついてきていた役人にかわって出張の役所ができ、役人が常に勤務するしくみができた。資源を商品にかえるためばかりでなく、アイヌの保護と外国船の警備の仕事もある。それはアイヌを「撫育」、つまり撫で育てることであった。あまりひろくて守りようがない。せめてアイヌが離反しないようにと考えた。クスリ場所に派遣される幕府の役人は2名。これに家臣がついている。たまたま文献に名前の記録されているものもある。寛政12年ー鈴木惣内(宗内とある)・鈴木覚治 文化2年ー棚木猪之助・丹羽鑑次郎らの名がみえる。出張の役人は、春に来て秋にかえるか越年する。越年手当というのがあるからこの時から年間を通じた勤務にかわった。蝦夷地の漁業と対アイヌ交易を、幕府の専売事業ではじめたということである。

幕府役人の調査

 調査でくる役人も多くなった。松前藩は蝦夷地のなかみについて、つとめてあきらかにしなかった。幕府は蝦夷地の実態をおさえることからはじめる。報告書が作られるから、この地方についての情報が豊かになってくる。蝦夷地経営のための資料収集であったり、経営の成果を調査・記録するためであったりする。小石川薬園から派遣された役人のように、薬草採取の可能性を持って調査に来る者もあった。原住民であるアイヌ民族の記録も豊かになる。のちにこの時期の記録によるアイヌ像というものができあがってしまう。ために、19世紀のはじめにつくられた記録が、アイヌ固有の生活や習慣、文化であるかの思い違いもうむことになった。

漁場で働く出稼ぎ者

 出稼ぎ者たちはそれまでの商人にかわって、引き続き幕府に雇われた。「蝦夷の島踏」という紀行文に「このたび公の御領(=幕府の直轄)となりても、なお昔のままにその業をなさしむる」とある。請負人は廃止したが、幕府の直営する漁業や対アイヌ交易に、使用人を引き続き雇っている。

釧路川口の景観

 幕府が人をおくりこみ、施設をもうけたことは、釧路川の川口の景観を少しずつかえた。蝦夷地の地図にかわって、集落ごとの景観図を初めて残したのは谷元旦(たに・げんたん)という人である。鳥取藩の出身で、谷 文晁の末弟。画家で名をなしたが、河川の橋梁架設にも詳しかった。蝦夷地の施策にたいする絵図面とり、すなわち写真班の仕事で蝦夷地にわたったものと理解されている。元旦は各地で風俗・人物・山水を描いたが、「クスリ湾眺望の図」は釧路川口の様子を今日に伝えている。楢山降福「国後与里箱館迄陸地道中絵図」とは10年近いへだたりと、筆法の違いがあるとはいえ、佐野碑園かいわいの景観、つまり、クスリ場所の中心地の景観を知ることのできる、貴重な絵図なのである。
 この絵を見ると、こだかい丘陵地の谷間にはいろんな建物がある。幕府直轄後につくられた施設である。左手の大きな建物は会所という施設である。会所の玄関は破風造り(=はふづくり)である。会所のまわりには柵がめぐらされていて、正面には冠木門(=かぶきもん)がすえられている。『東行漫筆』という本に「玄関は(間口)二間で破風造りにしてあり、至って広い。廻りの囲いは柵矢来、その他遠柵矢来もあり冠木門」とあるから、絵と記録はほぼ一致する。矢来(やらい)は、かきねのことで、竹・木などをあらく編んで作った仮りの囲いをさす。鳥居と祠があるが、これは弁天祠にあてはまる。釧路の厳島神社の原型でここに円空仏がまつられていた。今日に伝わっている円空仏でる。

クスリ湾眺望之図(谷元旦『蝦夷奇勝図巻』佐藤家本)

会所

 これまでの「運上屋」は「会所」とよびあらためられた。旧運上屋の漁業・交易に行政と旅宿の機能があらたにくわった。会所にとって行政庁の役割とは、次の3点をさす。(1)アイヌの保護・支配、(2)交易、漁業の経営、(3)交易、漁業の経営、(3)外国船の監視と警備である。「詰合」、「勤番」とよばれて幕府の役人が出張していた。細かくは戸口の掌握、内陸路の開さくと補修・管理、海岸線の警備、交易・漁業の監督、密貿易の取締などがあげられる。

旅宿所

 陸上交通路の整備がすすみ、八里くらいにひとつあらたに旅宿所をもうけた。松前藩の支配のもとでは、宿がなく野 宿をしながら旅をした。そこで旅宿所をあらたに建設することになり、下北半島の大畑で、製材と組立てるばかりに 切りこまれた建築資材がわざわざ船で運ばれてきた。だから釧路川の川口の景観もすこしくかわる。
 「久寿里旅館、鮫魚の物置の内を仕切りたれば、腥臭(=なまぐさい、におい)がはなはだだしく、耐えがたきとこ ろなり」。はじめ、旅宿所は漁業番屋に併設されていたが、のち独立して設けられるようになった。




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