蝦夷地警備と八王子同心


蝦夷地の警備体制

 幕府は津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を命ずる。太平洋とオホーツク海を結ぶ交通路の重要地点として、クスリ(釧路)に勤番所をつくるプランもあった。これまた実現しなかった。かわってネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を設け、警備にあたる体制をとった。派遣の藩士は毎年500名。両藩にはたいへんな負担だった。さらに八王子千人同心の原半左衛門からだされていた、同心の二、三男らをひきつれて蝦夷地の開拓と警備にあたりたいとの願いを許可した。寛政12年(1800)4月には第一陣の50人が半左衛門に率いられシラヌカについた。農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうことになった。

八王子同心

 八王子同心は武蔵国の八王子(八王子市)にあって、甲州街道の守備や日光の東照宮の警備にあたっていた。甲斐の武田氏の残党で、居住地は八王子を中心に西多摩、北多摩から遠くは埼玉県入間郡にわたっている。身分は武士であるが、いつもは高持ちの百姓として、耕作にあたっていた。兵農分離のもとでは、士族身分と農民身分をあわせもつ、きわめてまれな団体的農兵で、日本の屯田のはじまりとさえいわれていた。

蝦夷地警備の出願

 八王子千人同心が桑の産地の東京八王子市から、はるばる白糠まで移住することになったのである。原半左衛門は、寛政11年3月、幕府に蝦夷地にわたることを出願していた。その主旨は3点あった。(1)団体的農兵の経験を蝦夷地の経営にいかし奉公する、(2)アイヌにたいし農業をおしえ、ゆくゆくは永住をのぞむものをのこしたい、(3)移住者には同心のうち二、三男のうちより選りすぐったものをあてる。

同心子弟の生活維持

 八王子同心の指導者たちが移住のみちを選んだのはなぜか。同心は農民的な性格を持っている。自給自足の農村の暮らしもさまがわりして、貨幣によって手に入れた商品に依存するしくみができあがっていた。たとえば、肥料や農機具を金銭で買入れる。生活用品の中に自給品によるものの他に、貨幣で商人から買い求めて使用する商品が増える。農作物の値段がおさえられ、かわって値段の高い商品が農民にひろまろうものなら、農民の貧しさは拡大する。くわえて天明期の凶作がいっそう農民を苦しめた。二、三男が増えて、生産手段をもたない余分な労働力をうみだし農村の負担となった。蝦夷地のあたらい仕事が農民の貧しさの解決のみちと考えられた。

農耕・養蚕も可能

 同心の蝦夷地移住の願いを幕府は認めた。(1)蝦夷地内で農耕・蚕業も可能であり、人手が多ければ開拓のうえからも好適、かつ農業指導者としても期待できる、(2)それまでの経験が警備にいかされ、確固たる警備体制をひくことができる、(3)同心より任にたえるものを選び、将来には蝦夷地の各場所で新しい任務に就任させたい。ここは移住を願うものも、移住をうけいれるものも、いささか事態の認識に相当の開きがあるといわねばなるまい。幕府は3人扶持、月ニ分の手当を支給することにした。月ニ分とは世に言う一両のの半分である。

八王子同心の足跡

 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。なぜこの場所が選ばれたのか。蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。
 白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。

農業と道路づくり

 白糠に滞在中に(1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、(4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。
 阿寒で硫黄・明礬をとった。原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。道路では釧路川〜斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。

多数の犠牲者

 ユウフツ(勇払)・シラヌカに移り住んだ者は、あわせて130人となる。このうち33人が八王子にかえることなく、蝦夷地で犠牲者となった。白糠での犠牲者は17人で、このうち15人が3年目の享和2年(1802)に死んだとされている。
 多くの犠牲者をだしたのは、(1)自然条件に対する理解と対応が適当でなかった、(2)生活必要品を手当することができず、予定していた自給自足の農業も定着することなく、食糧不足を経験することになった、(3)幕府としても漁場開設の努力に比べると、寒冷地農業の技術指導も、それを育てる体制もなかった、ことになる。
 文化元年(1804)原半左衛門に箱館奉行支配調役というポストをあたえ、同心を「箱館地役雇」にというかたちで幕府雇とした。文化元年(1804)開拓のためよりも警備の一員としての役割を明らかにしたものである。

伊能忠敬と八王子同心

 正確な日本地図を残し、日本の近代地図の生みの親である伊能忠敬は太平洋岸をニシベツ(西別)まで足をのばした。ネモロとクナシリの方位を測量している。寛政12年5月21日に尺別の旅宿所につき、クスリ場所の調査にはいった。22日シラヌカにとまる。この宿に八王子同心の吉田元治が訪ねている。ふたりは天文をかたりすっかり息があったらしい。吉田は自分でつくった天球を忠敬に見せた。この天球、渋川春海の図画をもとに細工していた。忠敬はそのできばいに感心している。23日、 おなじ同心の石坂重治郎、前島新兵衛、八木庄蔵、坂龍右衛門らの見舞いがあってシラヌカをたつ。この後クスリ、コンブモイ(昆布森)と旅宿所をかさねアッケシ・ニシベツまでゆき帰路についている。したがって、この道を8月中頃になって再び通ることになる。「霧深ク、暮ニ甚シ、夜大曇」(寛政12年8月14日条)など釧路は霧の季節をむかえていた。

正確な蝦夷全地図

 最も正確な形の蝦夷地地図といえば、それは伊能忠敬と間宮林蔵による図面をあげねばならない。伊能・間宮図として知られ、文政4年(1821)にできあがった。この図ではアッケシ・クスリ・ビローの位置を雄阿寒岳、雌阿寒岳を目標点にすえてはかっている。忠敬についてはたいへんな合理主義者で知られる。鉄鎖、麻縄、里程車で距離を実測し、方位盤によって方位の角度をはかり、象限儀をもって傾斜角を計ったという。伊能・間宮図は北海道の形を正しく残した。正保期からみられた蝦夷地を南北に長く表現した絵図は姿を消す。

斜里山道

 釧路川の上流部のニシベツ(虹別)はサケの漁場やワシ(鷲)の狩猟場であった。冬になるとアイヌたちがかようので、「ふみわけ道」ができていた。この道をもとにして「斜里山道」がつくられた。摩周湖の東をぬけて、標茶と斜里川のトンダベックシを結ぶ山道である。享和元年5月に八王子同心により整備された。オホーツク海岸への警備兵を通行させるためである。この道を通った磯谷則吉は、「樹木がおいしげり、蚊(か)や虻(あぶ)がむらがってくる。昼でも原始林にさえぎられて暗い。道案内のアイヌがいても方角を見失うほどで、枯れ枝に火をつけ、たいまつのようにともしながら、歩かなければならぬほどであった。釧路川には所々に埋もれた木があり、うっかりするとこの木のために舟の底に穴をあけてしまうおそれもある。」
 道が整えられたと言っても、至って粗末なものとしかいいようがない。ただ、虹別が標津川や西別川と通じて野付水道や根室へのルートの集まる地点になっている。斜里山道の確保は斜里・標津・根室・釧路の4点が結ばれたことになる。



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