場所境の選定と国泰寺設置


箱館奉行の設置

 享和2年(1802)から文化4年(1807)までは、蝦夷地のうち太平洋岸の全域を幕府領にしたときである。この範囲を東蝦夷地と呼ぶことに決めた。エトロフをもって東の国境とさだめた。蝦夷地のすべてを幕府領にと考えたが、それでは中国大陸と貿易のおこわれている樺太がはいってしまう。つまり鎖国体制に穴があいてしまう。いっぽう、松前藩は東蝦夷地を幕府領にすることをのぞんでいた。箱館に蝦夷地を支配する役所ができて、ひとつの地域を2つの役所で支配するものだから、例えば幕府役人がくるたびに、松前藩とのトラブルがたえない。
 蝦夷地を経営するのは箱館奉行である(享和2年5月)。このころ「永久上知(えいきゅう・じょうち)」という言葉が使われた。期限をもうけないで幕府が支配することをこういいあらわした。
 おもな施策が2つある。(1)クスリ場所とシラヌカ場所を合併し場所の境を決めた。(2)厚岸に国奏寺をつくることがきまり、新しい僧侶を迎える、などがある。

シラヌカ場所を統合

 享和2年(1802)に幕府は、独立していたシラヌカ場所をクスリ場所にくみこみ一つの場所とした。また、アッケシ場所との境を東に移し、これまであいまいにされていた、内陸の場所境も明確にするようにした。
 ひとつは幕府が蝦夷地を経営するうえで、交通の整備や生産活動を効果的に行うためのものである。2点目は、これまで経済の単位として利益を生み出す対象にしかすぎなかった地域を、行政の単位として位置づけたことである。

白糠番屋(楢山隆福『国後与里箱館陸中道中絵図)

隣接地との境界

 クスリとアッケシの場所の境は、享和元年(1801)まで釧路町・昆布森の西にあるアチョロベツ川にあった。この年、仙鳳趾より東へ一里十九丁ニ十間さきのモウセウシに移した。現在の厚岸町と釧路町の町境である。その理由はアッケシ場所の面積が広いのに、アイヌの人数が少ない。それでは、道路工事、荷物輸送の距離がなくなり、人夫が不足でこの負担がたいへん、ということになった。役人や警備の藩士が頻繁に来るから荷物輸送にかりだされる機会の距離も増える。場所境をアッケシ側に無理やり移し、場所の面積をせまくしたのである。
 クスリとシャリの境は文化年間(1804〜18)にケネワッカヲイというところに決められた。クスリとシャリの道をつくるため、クスリ、シャリ、ネモロのアイヌが動員された。ところが、この3者の中で、クスリのアイヌの勢力がすこぶる強い。クスリのアイヌは道路工事の範囲を縮小するため、それまでの場所境であるヲタウニから20丁くらいクスリよりのケネワッカヲイ(中標津町計根別のあたり)に強引に移したという。

クスリ場所の役割

 クスリ場所はこんにちの釧路支庁管内から厚岸郡をのぞき、足寄郡と網走郡のそれぞれ一部を加えた範囲ということになる。クスリ場所と境を接していたのは、アッケシ・ネモロ・シャリ・アバシリ・トカチの各場所である。場所の境は海岸線・河川・道路のうえにある。資料採取のためには広い程良いが交通の労役を負担するためには狭いほど良い。

国奏寺の設置

 国奏寺と様似の等澎院、有珠の善光寺を蝦夷3寺とよぶ。享和2年に箱館奉行が寺院の設置を提案し、文化元年に寺院の設置がきまる。寺が建ったのは文化2年。初代国奏寺住職は文化2年の10月に厚岸にやってきた。
 国奏寺は西はトカチから東はエトロフまでを担当する寺である。役僧が1年に一度、住職は任期中に一度各場所をまわって仏事をつとめる。
 文化2年に厚岸にきた僧たちは、すでに物故者となった人達の追善供養をした。クスリ場所では、八王子同心の犠牲者、仙鳳趾で海難にあった19人の犠牲者の年忌をつとめた。これは明神丸という船の乗組員がネモロに向かう間に遭難して犠牲者を出したもの。遠くエトロフまでも足をのばしている。この中には、クナシリ・メナシでアイヌに襲われ犠牲となった(寛政元年5月)71人の供養も含まれている。

過去帳記載の出身地

 国奏寺に伝わる「諸場所過去帳」にはちょうど50人のクスリ場所関係者の名がある。松前藩の役人、出稼ぎの漁民、釧路への下り船の乗組員、釧路で水死した船の乗組員(遭難者)もいる。漁民の出身地をみると南部の下北から4人、下北以外の南部2人、秋田1人、松前5人、箱館2人で、江戸時代の漁業者の出身地を示すものとして興味ふかい。働き手たちは南部・津軽・秋田の東北地方と松前・箱館の道南地方から集まっていた。いっぽう漁場を経営する商人の関係者として天保期からあとに3人の支配人が死んでいる。うち2人に出身地の記載があり新潟の寺泊とある。経営は越後(新潟) = 米屋孫右衛門、出稼ぎの労働力は東北と道南という関係が、死亡者の記録たる過去帳のうえにもあらわれている。




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