クスリ場所の漁場と集落


蝦夷地全域を幕府領

 文化4年3月、松前(和人地)と西蝦夷地をふくめ全島を幕府領とする。10月、奉行所を箱館から福山(松前)に移し、松前奉行とよびかえた。国交と通商をもとめるロシアは、レザノフを長崎に派遣したが、要求を拒絶された。その報復で樺太クシュンコタンの運上屋(文化3年)とエトロフのナイボ(内保)、シャナ(紗那)の番屋・会所をおそいシャナでは交戦となった(文化4年)。このあと、(1)蝦夷地全域を幕府領とする、(2)津軽・南部のほか仙台、会津の東北諸藩に派兵を命じ、富山藩にも出兵の準備をさせた。

警備の仙台藩士、国後へ

 仙台藩の警備の藩士の数は2000人。「東行漫筆」を読むと仙台藩の藩士をうけ入れるために、旅宿所をあわててつくったとある。クスリとアッケシの境にちかい「セカシラ」という地点にあらたに旅宿所3棟をたてた。

「まりも国道」の原型

 このような事件のおこりかたは、蝦夷地の北と東を両にらみする警備をもとめていた。2つの地点に人・物をすみやかに動かすために、クスリとシャリを結ぶ道にくわえて、クスリとアバシリをむすぶ路線をひらく。その道を「網走山道」という。阿寒国立公園の動脈のひとつ「まりも国道」の原型というべきものである。このとき釧路からの起点は庶路にもうけられた。
 「網走山道」は、白糠町の庶路川からさかのぼる。阿寒町の舌辛川をへて阿寒川との合流点にたどりつく。これより阿寒湖の西を通って網走川におりる46里の道である。斜里山道は湿地で道のりの半分は舟にたよる。網走山道は河川の自然堤防をいかして馬も通行できる。それだけ機動性を発揮しやすい。工事は役人の指導のもと、アイヌたちが分担した。 

南部馬を通す

 道路ができるや、蝦夷地に導入したての南部馬を各地に配置するためこの道をつかっている。ところが、この馬を東蝦夷地から西蝦夷地におくったのか、その反対であったのかは、2、3の記録があって、なかみがすこしずつちがう。豊島三右衛門の聞書には文化4年5月に幕府は南部三戸の馬を東蝦夷地に導入することをきめた。「阿寒山新道を御開き新道ができるやいなや、馬を請けとるための人数を派遣せよ」という意味の記録がある。この道は非常のときに馬を通すことのできる道である。それだけにロシアの勢力がヨーロッパにむけられ対外問題における緊張がゆるむこと、この道は利用されず廃道となる。

交通路の分岐点

 網走山道・斜里山道の内陸路の起点になり、クスリは蝦夷地東部の交通の分岐点となった。
 会所から場所内の道のりはつぎのようになる。(1)仙鳳趾まで行き帰りとも2日間、(2)直別までは行き帰りとも3日間、(3)虹別までは登りは5日ほど、下りは2日、(4)アバシリ山までは6日くらい、ただし、大楽毛からさきに山道はなく、(5)アシヨロ山までは茶路川から山道がないがおよそ5日。これまでの交易と漁業経営の拠点にくわえて、ここに交通の分岐点としての役割が加わった。
 つまり、(1)交通の整備ー道路の開さく・旅宿・渡船・休所の施設や人・荷物の継ぎたてなど。(2)商品の生産・輸送体制の確立ー漁場への投資、本州〜蝦夷地間の海運輸送、本州各地の港にもうけた蝦夷地産物の取扱い所の設置、など。(1)、(2)の整備によって、この本がテーマとする「交易・漁業・交通の中心地」としての条件がかたまることになった。

漁場と漁業種目

 漁場には4カ所の拠点があった。白糠・釧路川口・仙鳳趾・それに内陸の釧路川中流域のニシベツ(虹別)である。白糠はコンブ、タラ、釧路はコンブ、厚岸湾内のニシン・チカ、釧路川中流域のサケというグループにわけることができる。釧路川中流域の漁場のうち計根別はネモロ場所のは範囲である。西別川水系に属するこのあたりは釧路側からの入会地となっており、サケ漁業のため出稼ぎした。

入稼ぎ者の階層

 いっぽう出稼ぎ漁民たちをみてみよう。階層としては「稼方・雇方」「番人」「通辞」、「帳役」、「支配人」の名称が史料にみえる。「稼方・雇方」は見習の漁業者もしくは臨時雇いである。固定給だけで産物出高の歩合がつかない。
 文化6年にクスリ場所にいた雇方は12人、南部・松前・秋田・津軽の出身者とある。「番人」になって正社員。稼方などのなかから成績のよい者が採用される。固定給は3両ほどだが産物出高の6.3%の歩合がつく。番人とは漁場の労働力の中軸。「番人は場所稼方の者より見立てられ、無頼の博徒、帳外者と唱え候たぐい、父母親戚にも疎まれ候やから、、往々非道の儀もこれあり、饑凍に及び候老人小児も顧みず、波風はなはだしき節も強いて魚事相働かすなり、惨刻(ママ)の扱い方少なからず」と書いたものである。
 「通辞」「帳役」「支配人」は役付きの者で「会所三役」のよびかたもある。番人などをつとめあげたものから出世する。歩合を算定するとき支配人は番人の2.5倍、帳役1.75倍。アッケシで支配人は年額45両、帳役26〜27両とある。アイヌたちの一ヶ月の賃金を12倍しても16貫128文。いま1両=1貫文として16両にあたる。

賃金格差

 アイヌには、会所の賃金雇いになって漁業番屋などではたらいた者と、自分で漁をしながらその漁獲物を会所に買い取らせる、2つの取引があった。会所の番屋に雇われたときの賃金は、一ヶ月1貫344文である。価格の対比は難しいが、そのころ会所で売っている酒の値段と比べてみる。上級酒が1升200文で7升分くらい、並の酒が1升180文で7升5合にみあう賃金ということになる。漁獲物の買い取りの方は、干サケが1束=20本、生さけ4貫でいずれも75文、コンブ10把=1貫600目で56文、熊皮1枚448文など漁獲物より狩猟物が高値とはいうものの、酒の価格にあててみると安価である。それゆえに(1)アイヌ民族の貪窮はまぬがれなかった。(2)このあたりが蝦夷地産物のコストを安くしておける理由である。

経営の実績

 蝦夷地経営のためには施設の建設、造船、道路などの出費、奉行所役人の人件費などの諸経費を投入していたことである。そこで、交易の収支に多少の得分(利益)があったとしてもその効果を疑問視する意見も幕閣にはつよく、はじめの意気込みとは別に、しだいに蝦夷地経営は消極的になっていったとされている。

下北出稼ぎ者の活躍

 勤務する使用人も「支配人、番人14人、雇方13人」(「東蝦夷地各場所様子大概書」)、「東行漫筆」では「支配人1人、番人16人、雇方21〜22人」とある。旧請負人の使用人がそのままとどまっていたことはこれまでに紹介した。次のようなケースもある。
 箱館奉行支配調役の荒井保恵は幕府直轄後の状況を調べるため各地をまわった。クスリ場所では支配人らの話を記録している。聞けば支配人の藤七は南部の大畑の者で、飛騨屋久兵衛がクナシリ・ネモロ(根室)・アッケシを一括請負いしていたころから蝦夷地に働きにきていたと話す。国後に3〜4年、それから西蝦夷地、釧路にきて9年にもなるという。かれこれ蝦夷地にわたって20年を越えることになる。酒造人の次左衛門も南部の人、もうひとり次七郎もかつて支配人、通辞を務めた大畑の出身者。幕府は旧来の出稼ぎ者をひきついだかたちをとっているが漁場や交易の経営の中軸をしめていた。

クスリ場所の戸口

 このクスリ場所の範囲の中に、どれほどの人口をかかえているのだろうか。アイヌの人別をおさえておくことは、幕府にとり大事な仕事の一つであった。文化6年(1809)の報告書では、24のコタンに309軒、1384人。このうち男が684人、女700人であった。周りの場所とくらべてみると、アッケシ874人、トカチ1034人。東蝦夷地のうちで最も人口の多い場所であった。

シャクベツ番屋の景(部分)(谷元旦図)

支配の組織

 アイヌを和人化する政策には変動もあるが、大きくは2つの流れがある。(1)氏名をわざわざ日本人ふうの名前にかえる和名の強要や、頭髪を日本風に改めるなどの和風化の方向である。(2)アイヌ支配の組織として村方三役に似せた「役土人」とか「役夷人」に任命し、支配の末端にくみこむことである。「役土人」というかたちでアイヌ社会にかぶせた、乙名(おとな)・小使(こづかい)・土産取の配置がそれである。文化期の資料によるしかないが、村方三役の配置をみるとアイヌの勢力は(1)白糠、およびその枝郷、(2)釧路川および海岸線、(3)根室領へ出稼ぎしている釧路川上流部の勢力にわかれていた。

自然コタンの動揺

 この時期の史料を見てゆくと、アイヌたちが労働力として漁場に集められコタンに「空家」が発生していることが指摘されるようになる。アイヌたちはコタンから漁場に出稼ぎするようになり、自然採集のための移動から和人の漁場の生産暦にそって住む地域をかえる生活にかわっている。

椦棲 コンブムイ(楢山隆福図)

アイヌ社会への影響

 松前藩にとっては領域外の地であった蝦夷地。幕府に直轄されたことにより、蝦夷地は幕藩体制のなかに組み込まれた。原住民のアイヌにとっては世帯数や人数を調査されたり、漁業の労働力とされた。しかも安い労働力にすぎなかったし、かつ自然コタンの動揺をうながした。それまでの独自の生産体系からはきりはなされ、和人の生産の仕組みの中に組み込まれることになった。
 また、民族の文化、生活のスタイルをあらためる方針ではなかったが、例えばエトロフでは姓名を日本風に改めることを強制するなど、固有の文化を否定し、同化する政策のもとにおかれる出発点となった。このような状況をとらえて、学者の間には蝦夷地を幕藩体制の中に組み込んだ蝦夷地政策は、アイヌにとっては滅亡の政策であったとする見解がある。

 センポウジ(楢山隆福図)

直轄構想の挫折

 この時期の幕府の蝦夷地直轄を3つにわけ、それぞれ事件を紹介した。はじめは蝦夷地の産業開発につよい意欲を持ち、生産・流通の手段を整えた。蝦夷地の魚肥を本州の農村に投入すれば、15万町歩の新田開発に相当すると計画した。ところが計画どうりにはゆかないもの。思いのほか経費がかかる。蝦夷地の産物が思うように普及しない。例えば幕府の奨励ににもかかわらず、この時期の関東の農村ではなかなか蝦夷地産の魚肥が普及しない。船をつくって、荷物を運ぶ構想もいたずらに時間を空費するばかりで能率が悪かった。5万両をかけてもの積極的な構想は、なるべく無駄な経費と事業は控えるという消極的な方針に改められた。幕府財政を補う計画はむしろお荷物となって、産業の開発はやはり商人に請負わせる方針にかわる。それでも、対外問題の緊張が高まっているうちは、鎖国体制をまもること外国船の打ち払い対策を軸に、幕府の蝦夷地支配がくりひろげられる。蝦夷地直轄は文化10年から商人の請負い経営にかわり、文政4年(1821)には領地を松前藩にもどし、直轄政策はひとまずおわった。




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