米屋(佐野)孫右衛門


幕府直営から商人請負経営に

 文化9年(1812)に幕府は漁場の直営から、商人請負い経営とすることにした。直接経営より商人にゆだねたほうが効率がよいとの幕府内部の意見に、松前奉行側もおれざるをえなかった。そこで、場所ごとに入札により、請負商人と請負い金額をきめた。クスリ場所の請負人には川内長三郎・近江屋九十郎が1355両2分で落札した。ただ、競争入札のための高額落札が相次ぎ、どの場所においても経営を圧迫した。

米屋の進出

文政五年、松前に進出していた2代目米屋孫右衛門(儀兵衛)が運上金450両でクスリ場所の請負人となった。7年後の天保3年(1832)に3代目孫右衛門(勝三郎)が請負いをひきついだ。そして、文政期から米屋がクスリ場所の請負いを更新し、明治期に引き継がれている。
 慶応2年(1866)に姓を賜り、「佐野」となのることになった。明治3年(1870)に174戸637人の移住が報告された。これは4代目孫右衛門(喜与作)の事跡で、佐野碑園に功績をたたえる記念碑がたてられてある。同時にこの人は佐野家にとって釧路撤退の幕引きを演じた人である。

越後国・寺泊

 米屋の出身地は寺泊である。詳しくは越後国三島郡寺泊。越後国では、今町・柏崎・出雲崎・新潟とともに日本海海運の寄港地であった。米屋は寺泊に本拠をかまえ、米・麹を取り扱う商人であった。日本海のゆるやかな砂浜に位置し、佐渡への渡り口であった。旧北国街道(美濃ー関ヶ原ー日本海岸ー陸奥・深浦ー三廏)の宿場で、佐渡におくられる流刑者は寺泊から配所にゆく。

北前船の寄港地

 今日では、JR越後線の大河津で下車した後、路線バスにゆられておよそ40分、寺泊のまちにつく。いま佐野家ゆかりのひとは寺泊にはいない。聖徳寺というところに同家の墓所が残っている。「寺泊の歴史」によれば、舟持商人の集まっていたこたが知られる。文化7年の廻船往来手形の発行は32隻をかぞえ、北前船の寄港地たる一面をのぞかせている。この32隻のうち300石をこえる船の持主のなかに、糀や孫兵衛と川合勝之助の2名がある。このうち、「糀や」が米屋の屋号をもち、松前に出店する。

米屋の系譜

 「糀や」が米屋という屋号をもった。だから土屋祝郎氏は米屋は「こめや」と読むのであって「よねや」ではないと主張する。氏は佐野家の当主・猪俣正夫氏に伝わる史料の閲覧を許され、その家系を確かめた。そして、初代は孫兵衛でこのあと松前にわたった孫右衛門系と、寺泊にとどまった孫兵衛系にわかれた、とされる。寛政年間から文化期のはじめにかけて糀つくりと卸業から廻船業にかわる。また、一説に松前への進出はこれよりはやく天明元年のこととされている。土屋氏は「初代孫兵衛のとき、大きく繁栄し同1人で寺泊と松前の経営は困難になった。そこで、つぎの世代から寺泊は岩吉(孫兵衛)、松前は儀兵衛(孫右衛門)が経営の指揮をすることにした。しかしそれほど独立性は明らかではなかった」、とされる。

廻船業者としての経営

 まず、孫兵衛門系の船跡をおってみる。下北の佐井村の松谷旅館に「廻船客張」という史料が伝わっている。廻船問屋の取引先を記録したものである。文化12年(1815)に米屋の船が佐井湊にきて、この地の廻船問屋である同家と取引した。
 松谷旅館が佐井で廻船問屋をはじめたのは寛政期である。これは東蝦夷地〜本州間の取引量がこの頃ふえたことを背景にしている。日本海側の船が本州の先端部の下北の港に立ち寄るのは、本州〜東蝦夷地の往復や、東蝦夷地〜箱館・松前を往復するときに、船をあやつる(操船の)か、産物の取引のときとの、2つの理由がある。次は嘉永から明治にかけて、孫兵衛(初代)より数えて4代目孫兵衛(善三郎)の船が下関の廻船問屋と取引のあったことを示す史料である。下関は(1)関門海峡、瀬戸内海をへて上方へ、(2)日本海を薩摩・沖縄に向かうコンブ輸送の、2つの回路の中継地である。
 釧路港に入津(にゅうしん=港にはいること)の記録もある。天保4年4月、米屋孫兵衛の手船万葉丸が、様似沖で外国船らしきものを発見、クスリの松前藩出張所に届けた。この事件報告から、米屋の船の動きをおってみよう。万葉丸は釧路場所へ産物積みとりのため6月25日に松前をたった。釧路場所で用いる品を積載し、松前出発ののち、26日から佐井で風待ち、29日同湊をたち7月3日箱館にはいる。10日箱館をでて襟裳岬をめざしたが、この間に様似沖で外国船を発見した。
 このように米屋の船が本州の北(佐井)と西(下関)に入港しており、また松前〜クスリ間で手船(所有船による商品輸送)輸送を行っていたことが分かった。

昆布売極約定証文之事(佐野家文書)


寺泊の問屋

 米屋の商品の行方は、下関の廻船問屋との取引があったことからして、上方や九州におよんでいただろう。所属する寺泊にも寄港して蝦夷地産物を流通させていたと思われる。「寺泊の歴史」にある蝦夷地産物の流入状況は、安政5年(1858)ころで年平均ニシン800箇、タラ300束、マス2万本、サケ1万本で昆布はなかった。また、寺泊から蝦夷地三湊(松前・江差・箱館)に向け出荷されるものは、米5万6000俵(ただし1俵=4斗3升、約64.5キログラム)、酒1500樽(ただし1樽=2斗、36リットル)とされている。タラ・サケ・マスの産物は、東蝦夷地からの荷物の入荷であったことをしめす。100両の取引に3両の口銭が徴収された。3%の流通税である。 この時期の寺泊の問屋は5軒あって、片町ー上林津右衛門、扇屋(前田)彦左衛門、米半(石原)半助、桝屋久助、大町ー京屋(借田)四郎左衛門、である。のちに紹介するが米屋は京屋を保証人にしており、寺泊における取引は同家を通じていたとみられる。また、釧路市指定文化財となった佐野家文書によれば同家がかかわった問屋として、敦賀ー飴屋、佐渡の松ヵ崎ー丁字屋、木島をあげることができる。史料が乏しく検討のよすがもないが、これまでの史料で推測できる部分は、蝦夷地産物を手船輸送によって、下北・寺泊・佐渡・敦賀・下関あるいは上方まで売りに行くかたわら、それぞれの港で特産物を買い取ることによる利益からなっていたらしい。

佐野家所蔵の矢立(やたて)と印


クスリ産物の取引

 クスリ産物はというと、コンブ・サケ・魚〆粕それにタラである。米屋の商品取引の様子をあらわす史料は残念ながら多くない。
 その1は、「昆布売極約定証文」という文書である。翌年5月に採取予定の東蝦夷地クスリ場所のコンブ2500石目を、金1000両で松前城下の米屋勝三郎が売却すると約束した証文である。ただし、文章としては裏面に「反古(ほご)」と書いてあって不要となり実効をもつものではなかった。
 その2は「預金証文之事」。これは次年度の「クスリ〆粕500石目」を抵当に金300両の金を借り、一ヶ月金25両につき一歩の利息を支払うことを約したものである。
 どちらも来るべき将来の収穫期の商品を前提に、先物取引をしたり、抵当として資金の融通を設ける取引関係であったことをしめしている。場所経営そのものがあらかじめ大きな資本を必要とする。それは請負人となるための運上金の負担であったり、場所に雇う漁民に融資する前貸金、生産に要する漁業具など生産手段の経費であったりする。この資本をどこから調達するかといえば、例えば紹介した史料にみられるような取引相手の商人、問屋が相手となっている。
 「預金証文之事」にみられる取引相手は越後・根谷浦の富樫兵左衛門である。クスリ〆粕の流入先が越後国であって、魚肥の北陸への流入を示す。〆粕500石はこの時期のクスリ場所の1年の平均的な産出高にあたっており、量を確保できないときはコンブを持ってかえると決めている。コンブにしろ〆粕にしろ、場所経営によってえられた産物を受け入れる問屋の用意する前貨資本が、漁場経営をつづけてゆくうえで、鍵をにぎっていたといえよう。

佐野家文書(越後米とクスリ新昆布の取引をしめす証書)






     

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