2.移住民

(1)漁場持の招募移民


釧路群永住人

 釧路国三群の支配を委任された佐賀藩の経営の手はじめは先ず移民を送り込むことであった。しかしすでに述べたように維新当時の釧路国は場所請負人による請負場所であり、例年、鰊、昆布、鮭を主とする漁業が、アイヌや主として東北、道南地方からの和人出稼漁夫の労働の上に成り立っていた。また開拓氏その初政に場所請負制度を廃止し、漁場(土地)を移住者に開放して自営漁民の土着(永住)を計画したが、請負人等の反対にあってあえなく挫折、わずかに移民の招募を諭達しただけで旧請負人の権益を認めたこともすでに述べた。佐賀藩も釧路国経営にあたっては、同藩の有力商人・武富平作を用達に命じて直営の態勢をはかろうとしたが、すでに漁業の適期が迫っている明治三年の漁業移民については、長年現地の漁場経営に実績のある榊富右衛門、佐野孫右衛門などの旧請負人の招募に依存せざるを得なかったようである。

 『開拓使事業報告』によると、『明治三年二月、佐賀藩、漁場持漁場一ヶ所移民五戸ノ割ヲ以テ移住者招募スベキ旨ヲ諭達ス』とあり、これに応じ『四月、厚岸漁場持榊富右衛門佐賀藩諭告ニ基キ函館ニ於テ各地方ノ農民ヲ招募シ之ヲ厚岸、濱中両地ニ移住セシム(後略)』『五月、釧路魚場持佐野孫右衛門佐賀藩ノ諭告ニ基キ自ラ率先籍ヲ釧路ニ移シ又秋田青森函館等ノ人民ヲ募リ移住セシム者百七十余戸(後略)』と、打てばひびくように移民を送りこんだことになっている。

 ここで話が横道にそれるが、この記録について簡単に解説しておく。この『開拓使事業報告』は、明治ニ年の開拓使設置から同十五年の開拓使廃止に至るまでの開拓使(後の北海道庁)の実施事業を、年表式に摘記したり諸統計を整理して、明治十八年に大蔵省が刊行したものである。したがって、「開拓使布令録」のような法令書などと違い、記録者の主観もかなり入っており、史実として正しいかどうか判断に苦しむ記述がないでもない。たとえばここに揚げた佐野氏の移民招募の項であるが、「自ラ籍ヲ釧路ニ移シ・・・」などはその好例である。従来から釧路で発行された史書の多くがことさらにこの語句を取上げて、中にはこれをもって釧路の『開基』とする向きもある。もちろん筆者とて、佐野家が釧路地方の開発に果たした役割を過小に評価したり、否定したりするつもりはない。

 しかし、政府が戸籍の編成を法制化するのは、明治四年の戸籍法の発布とこれに基く翌五年の所謂壬申戸籍≠フ編成以後となるので、現代流の戸籍(本籍)を定めたということとは法的には矛盾することになりかねない。現に同じこの『開拓使事業報告』の中の明治十一年の項には、「明治二年以来ノ募移民及漁場持等永住或ハ移住ト唱ヘ自費募集者亦少カラスト雖モ当時未タ戸籍送付ヲ為スニ非ス(後略)」という記録があって理解に苦しまざるを得ない。

 しかし余談はともかく、佐賀藩と開拓使との引継関係記録である。『伊万里県引継書』によっても、釧路郡永住人として162人の氏名があり、また後年開拓使から太政大臣に宛てた公文書にも、「・・・・・右漁民ハ元来函館商民佐野孫右衛門漁場持ノ節同人招募ニ依リ他地方ヨリ移住致候者ニテ同人差配ヲ受候間モ無之漁場旧佐賀藩ヘ引揚相成、止ムヲ不得其儘藩部ノ移民ニ相成居候・・・・・」という記録があって添付された名簿に前期162名(若干異同はあるが)の人が名前を連ねている。

これらの漁民(永住という表現もある)と佐野氏との関係が、旧場所請負時代同様の雇傭契約による賃金労働者としての此の地に出稼ぎに来たものか、あるいは佐野氏の仕込を受けたかどうかは別にしてもともかく此所での漁業自営を志して移住したものかは正確にはわからない。ただ、佐賀藩の諭告にすかさず応じて入り込んでいる経緯からみると、むしろ佐野氏が、「一時的な出稼≠ナなく、開拓の御趣意を奉じて永住を志した者です。」と報告したものと考えるのが自然ではなかろうか。もっとも出稼ぎにくる漁夫にすれば、制度的には請負人の雇傭漁夫(出稼)でなく漁業を出願自営できる保証を得た以上、中には家族を伴った移住も相等数いたに違いない。もともと彼等のほとんどが郷里では余裕のある生計をたてられなかったであろう人びとであるだけに、北海道で暮らしのメドが立つならば出稼とか永住という名義にこだわる理由はなかったであろう。それを裏づけるかのように、佐野氏とこの漁民達は翌明治4年の流氷害による昆布の不漁に際会すると、「諭告に応じた永住人」を口実にして佐賀藩の救助を仰ぎ、それが前記の「開拓使公文録」につながってくるのである。

いずれにしてもこれらの人びとが明治三年前後に釧路地方に居住し、漁業に従事していたことは間違いないだろう。


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