2.移住民

(2)佐賀藩の農工移民

  (ア)暖国からの移住

『生国出立記』

 漁場持ちに募集を命じた移民とは別に、明治四年七月には佐賀藩自ら二八六名余の移民を釧路国に送り込んだ。

 このときの移民の一人である内田伊七の記録が、現在厚岸町卿土館に保存されているが、ただ、『仰々拙者水車大工業ノ為メ北海道釧路国開拓ノ為メ参百五十名鍋島公ヨリ差向ケニ相成候間拙者ハ釧路厚岸浜中ノ三ケ所江水車そば粉引之為掛ル事ニ付明治四年三月ヨリ…』の書き出しで始まるこの記録(『生国出立記』)は、必ずしも難解な資料ではないが、現代風には馴染まないであろうし、伊七の心情ももちろん誌されてはいない。そこで、できるだけ原文に即し、かつ内田伊七ら移従者の心情を私なりに推量し、書き加えながら、郷里出発から厚岸到着までの『生国出立記』を現代風に脚色してみよう。

上陸前夜

明治四年旧暦八月十日夜。旧暦八月十日の夜といえば、北海道も東の果てに近い厚岸港では、中秋の冷気がともすれば肌を刺すような感じが無いでもない。満月にはまだ五日の日はあるが、中天にかかった十日の月は、折りよく凪(な)ぎた海面に金銀の波をわずかに散らしてその影を映していた。

 この晩、長途の船旅を続けてきた一隻の汽船が、夜目にも黒々と山影を横たえる尻羽(しりぱ)の岬を大きくかわして、湾内にしずかに錨を降ろした。

 船の名は神光丸、九州は佐賀藩の御用船である。乗員はおよそ三百名。釧路国支配を委任された佐賀藩の募集に応じて、厚岸群、釧路群の開拓を思い立った移民たちであった。

 港をおおう夜の冷気とは逆に船艙はムンムンするような人いきれで息苦しいほどである。船酔いで疲れたのか、それとも明日からの不安がそうさせるのか、人々の顔は青ざめて生気が無く、うつろな目には光もなく、そこに一組、あちらに一組と肩を寄せあってひそひそと何かを語り合っていた。上陸が明日十一日になったのは彼等にはむしろ幸いだったかもしれない。なぜなら彼等の失望が一晩でも遅くなったからである。

伊七の回想

 内田伊七(当時二十六才)佐賀県神崎郡上東郷下石動生まれの大工である。釧路国の支配が佐賀藩に命ぜられると、彼は一年間の契約で藩に雇われた。仕事は釧路、厚岸、浜中の製粉(蕎麦粉ひき)用の水車場の建築である。

 船艙の片隅で、伊七は船酔いに痛む頭を抱えながら静かに眼を閉じて、国元を出てから今日までのことを回想していた。

 『故郷(くに)を出たのが七月二日だからもう四十日近くもたってしまった。あの日は百人余りの人が松隈川まで見送りに来てくれていたが、みんなどうしているだろう。それにしもあの時、芳太郎(長男・当時四才)が、『お父さん、晩には早くかえって…』と云ったときは、これが我が子の顔の見納めかと胸がふさがる思いだった』『諸富(もろどみ)の村で、藩からもらった支度金の中から十五両を親父に渡したのが七月五日、あれで父とも生き別れ…』と伊七の回想がつづく。

 彼の書き綴った『生国出立記』によれば、この佐賀藩移民の一行は、明治四年旧暦七月二日、藩の御用船・神光丸で郷里を出発し、六日、長崎に入港、十四日同港を解纜(かいらん)して一路厚岸港を目指している。

 熊とアイヌの国としか知らなかった土地への移住(出稼)ともなれば、親子親族生き別れの覚悟も無理はない。事実彼らは、何度も死線をさまようような危険にさらされている。

 恐怖はまず長崎滞留中から始まった。九日夜の高波は一丈八尺(約六メートル)近くもあり、今にも船を呑み込むばかりのすさまじさであった。十四日長崎を出港したが、名にし負う玄界灘は折しも大時化(しけ)、船は激浪に木の葉のようにもてあそばれ、三百余人の乗員一同、生きた心地さえなかった。まして船になれない百姓たちは”死人同様”のていたらくであった。

 十五日下関、十六日神戸と寄港を重ねて、東京品川沖に停舶したのが十八日、やっと生きて土を踏み、役人達は藩の御本陣・村田屋へ、百姓達は近くの禅寺に止宿した。

 『可哀想に、卯八の死んだのはあの日だった。『北海道で一年、みっちり稼いで銭を残してくるんだ』と気張っていたが、銭を残すどころか、その北海道とやらも見もしないで死ぬとは不運な奴よ』と、同業・卯八の死を思い出した。『お寺に泊まったのも何かの縁だったか、さいわい葬いもすぐできたし、石碑まで建ててもらえたのがせめてもの後生(ごしょう)よ…』伊七は卯八の冥福を静かに祈っていた。

 品川には十日間逗留して二十八日出発、翌日昼浦賀へ寄港、夜同港を出航した。

 三十日、九十九里浜の沖を通過のとき、幅二尺の二間板に乗員一同の名前を書き入れ、天保銭をそれぞれ一枚づつ張り付けて海へ流し、四国の丸亀神社(金比羅宮)に航海の安全を祈願した。聞けば”流し樽”という船乗り達の”まじない”に習ったものだそうだ。

 金比羅さんのご利益のせいか、そのあとの船旅は割合平穏で、八月一日朝には南部の鍬ヶ崎(岩手県宮古港)へ入港できた。ただ、ここでも佐賀生まれの百姓・武七という者が死に、同地に葬っている。そう云えば鍬ケ崎では、土地の人達が船に酒や肴を売りにきていたが、何を話しているのか言葉がほとんど通じないで大弱りしたものだ。みんなが、北海道にはアイヌが住んでいるのだし、ますます言葉が通じないだろうと不安がったものだ。二日、鍬ヶ崎出港、函館へ入港したのは八月四日の昼である。郷里を出てからすでに一ヵ月を過ぎていた。函館に上陸し、風呂で旅の疲れと汚れを洗い流して、ようやく人心地を取り戻した。函館出港が八日の朝、二昼夜半でやっとめさす厚岸湾にたどりついたわけである。

 痛む頭をかかえながら、伊七は今日までの出来事を思い出していたのである。明日の上陸を前にして少しでも寝ておこうとつとめるのだが、なかなか思うようには寝つかれなかった。彼ればかりではない。そこここに組を作って座っているものもわずかに足を伸ばして横になっている者も、明日からの不安からか、じっと息を殺して眼ばかり異様に光らせているか、うつろな瞳であらぬ方をながめているかであった。

アイヌの出迎え

 翌十一日、いよいよ厚岸に上陸である。しかし北国の気象は、暖かい国からの移住者にとってはあくまでも冷酷非情であった。伊七は綴る。『十一日朝、汽船一面、白ク相成ル霜、船甲板ニ上リ見レバ、山ハ雪ノ降リタル所ト同ジ様コレニ有リ、実ニ驚キ入リ候』旧暦とはいえ、まだ八月というのに鳥肌のたつような寒さに伊七は思わず身ぶるいした。だが、戦慄を感じたのはその寒さのせいばかりではなかった。

 厚岸の会所から出迎えにきた池田儀右衛門という戸長に従(つ)いてきた五人の異様な風態(ふうてい)の人を見たときには、男の伊七でさえ一瞬身の毛のよだつのを禁ずることができなかった。まして女子供達の驚愕は尋常一様であるはずがなかった。『女子供ハ一同土人ヲ見ルヨリワンワント騒グ、実ニ大騒ギ…』と、話には聞いていながらも、なおその想像とかけ離れたアイヌの出迎えに、、魂も消し飛ぶような恐ろしさを味わったのである。

 しかし、別段危害を加えるわけでなく、いや、むしろ親善の意をこめた出迎えと知ってほっと安堵(あんど)の胸を撫でおろした。

 上陸後、役人達はひとまず会所へ、移民達は旧仙台藩の陣屋というところへ落ち着いた。翌日、この厚岸という所を見て回ったが、国泰寺と会所のほかは、木造家屋というのは会所付近に七棟ばかりと国泰寺の前に一軒あるだけで、あとはアイヌの草小屋ばかり寒ざむとしたところで、何とも心細い限りであった。

 厚岸には十日程滞留し、その後約百人ぐらいづつ、釧路、浜中、厚岸の三ヶ所ヘ別れていった。これが八月二十二日のことである。

 寒さに向かう頃入地したこの移民たちに、北海の自然はさらに無情であった。それからひと月もたたぬうちに厚岸地方は初雪に見舞われた。しかもこの地方には珍しく三尺にも及ぶ雪の量で、これがとうとう”根雪”になってしまった。伊七の日記は、『明治四年九月十八日晩初雪三尺、是根雪、同十二月、八尺』と、非常な自然を恨むように筆を結んでいる。


前ページ 目次 次ページ