政府の都合による制度の変更や機構いじりも、直接わが身に累が及ばぬうちは、せいぜい”長いものには巻かれろ”とか”泣く子と地頭には勝てぬよ”程度の不平や陰口で済ましもできるが、この変革は、佐賀藩移民にとっては、一身上の問題につながる由々しい大事であった。
つまり、彼等にすれば、”鍋島の殿様の御領地になったから、その蝦夷地とやらでも移住する気になった”のである。それにもかかわらず、『御一心(新)ニ相成候トノ由申シ来リ依ッテ百姓其外天長(朝)江引渡シ相成候事』と、まるで品物でも引渡すようなつもりで人間を引渡し、受取るという役人根情をふりまわされては、泣くにも泣けない気持ちであった。
たしかに彼等の多くは、不景気にあえぐ郷里の農村では食っていけないから北海道への移住を思い立ったのにはちがいない。しかしそれは、彼等の旧藩主の支配地となったというからその決心がつき、苦労を覚悟で遠い海を渡ってきたのだ。
ところが、移住して一と月経つか経たぬうちにもう初雪が三尺も降り、おまけに根雪になって半年は雪と氷に閉じ込められると聞いた。また開拓とはいってみても、畑すら満足にできるような土地柄ではなし、魚と昆布をとって暮らすのが生計(たつき)の方法だとも知らされた。このうえ縁もゆかりもないお役人の支配下で、しかも不本意な仕事をしてまでここに永住する義理など毛頭ありませんと思うのも無理はない。 ”故郷に帰ろう”と言う彼等の声は次第に高まり、まず佐賀藩の現地詰役人から開拓使(根室出張開拓使庁)に対し、移民達の帰郷の希望が伝えられ、帰国の旅費の調達が申し込まれた。
しかし、いざ承諾書の提出という段階になると話はまた再転した。
『昨日まで承諾したのは、実は移民達の虚言であった。私たちの不明から開拓使をあざむいたことは重々申し訳けない』
という佐賀藩側のあいさつである。
開拓使が事情を聞いてみると、『寒い土地では堪えがたいから、できれば札幌方面のような暖かい場所に移りたい』というのが本心とわかったが、それでも説得の結果、移民達も承諾し、一同から承諾書をとって、やっと移民の引渡しを終わった。
『しかし、これだっていやがる移民を無理に承服させたのが実情であり、とても永住の見込みはおぼつかなく、風土病にでもかかればまた苦情を申立てるに決まっているし、そうなれば御政道のさまたげにもなるであろう。したがってこの二百四十人の者を札幌方面に移してやれば、彼等も納得して稼業に精を出すだろうから、札幌方面への移住を認めってやってほしい』というわけで、こんどは根室出張開拓使庁から札幌本庁へその願いが提出された。永住の意思のないものを留めておいて、”火中に栗を拾いたくない”根室出張開拓使庁の上申も無理はないといえなくはないが、これに対する札幌本庁の態度も、さすがに典型的な”お役人”であった。
『申し越しの事情はよくわかった。おそらく永住の見込みはおぼつかないだろうが、大工や木挽のように、手に職のあるものはまだなんとか使い道があるから、とりあえず三年間はは札幌本庁で雇い入れる形式で引取りその職につかせてもよい。ただ、その他の手職のない農夫は、土方(土工夫)としてならば引受けよう。農夫という呼び名は困るし、農業をやらせるつもりもないから、それでもよければ、一日でも早くよこした方がこちらも好都合である。』と、いうのである。
こうして、明治五年五月、厚岸から九十三人、浜中から二十人、釧路から五十二人の佐賀藩移民たちが札幌府下へ再移住して行き、残る人たちが根室出張開拓使庁へ引渡された。
猫の目のように変わる制度に引きずり回されたこの暖国からの移住者のうち、果たして何人が移住当初の目的を達し得たであろう。
このあと明治九年、中国向け輸出昆布の集荷販売を独占した広業商会の事業の推進力となったのは、開拓使役人の西村貞陽や商人の笠野熊吉の佐賀出身者であるが、これらの人々の活躍によって昆布漁業が安定するようになるまで、何人の人たちがこの地方に残りえたのかは不明である。
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