3.漁場持・佐野孫右衛門

(2)佐野氏の経営と破綻


御子柴文書

 碑文でおわかりのように、この碑は昭和十年八月、釧路港開港三十五周年(起点は明治三十二年八月の釧路港普通貿易港指定)の記念事業として釧路市が建立したものである。そしてその趣意は、これも碑文に明らかなように、郷人(釧路市民)が佐野氏を釧路開発の功労者として『其ノ功徳を追懐シ』『其ノ偉業を不朽ニセント欲シテ』佐藤昌介先生や服部品吉先生に撰文をお願いし、両先生は釧路の人達の記録に基いて、『その梗概(あらまし)を書いた』としている。

 ところで、ここで云う「状」とか「録スル所」とはいったい何を指しているのだろうか。それは、『釧路国郷土便覧』や『釧路発達史』をはじめとする釧路の史誌等でありそれらに記録された佐野氏に関する記述であろうと考えてほぼ間違い無いと思う。ところでこれらの記録の底本となっているのが、釧路郡役所書記であった御子柴夢斎が明治二十二年に書いた『釧路漁場開祖・米屋の実蹟』という記録であることも、郷土史研究者の間ではだれも疑いをいれないところである。

 さて、この御子柴氏の記録(以下『御子柴文書』)は、佐野氏を釧路漁場の開祖と位置づけその功徳を顕彰するために記されたものである以上、佐野氏の功績を最大級の賛辞をもって追従することは当然であり、これを底本として綴られた郷土記録にもとづいてその梗概を撰文した紀功碑の碑文もまた佐野氏の功績を過分と思えるほど讃えるのも極めて理の当然である。もちろん私も佐野家歴代が釧路地方の開発に果たした役割を過小に評価したり、故意に捨象したりするつもりは毛頭ない。ただ、本書が単なる佐野氏顕彰録ではない以上佐野氏の実蹟や場所請負制度についても当然客観的な評価や批判を避けるわけには行くまい。紀功碑の頌徳文や従来からの見解とはかなりの食い違いもあろうが、ここで明治維新を中心にして、釧路の漁場持佐野家について述べて見よう。

漁場経営の実態

 明治維新という社会変革は、釧路にも大きな社会変動をもたらした。なかでもその影響をもっとも強く受けたのが、場所請負人である佐野孫右衛門であった。維新前、彼が支配していた土地、それは、安政の開港以来一躍脚光をうけた対清輸出昆布一大産地であり、彼が支配していた人民とは、この昆布を生産するために薄給で雇ったと推定される出稼ぎ漁民たちとアイヌ人であり、その生産手段の上にたってこそ、場所請負人の経営が成り立つものであった。先にものべたが、請負人にとって場所請負とは請負金額を上回る収入があってこそ請負の意味があるのであり、そのための企業努力は経営責任として当然なさなければならぬはずのものであり、その努力をことさらに美徳と讃えるにはあたるまい。

 ただ、幕末になって、請負人に対して道路の築造や補修、公金公文の逓送、宿泊休憩施設の築設など、行政吏に準ずる任務を義務づけ、これに要する費用を請負人に負担させたことは事実であるが、これとてもこれらの費用が、必要経費、義務的支出として請負金に加算されているはずであり、少なくとも場所請負人が、自分の利益を度外視して公益のために自発的に行った行為であるかのような見解は私にはとれない。それは明治二年、開拓使が、「従来商人ノ身トシテ土地人民ヲ請負支配致居候儀名分ニ於テ宜シカラズ』と、請負制度廃止の宣言したのに対して、旧請負人達が猛烈に反対、開拓の推進上やむを得ず開拓使も妥協し、結局『請負人廃止ニ付、当分漁場持ト唱フベシ、其外ハ従前通リ』として、彼等の従前からの権利を認めたことをもっても、容易にうなずけることである。

 ここで一つの資料を提供しよう。資料の名は『釧路史誌』である。

 『…明治の初期頃は、佐野氏が土人を使って昆布採りの直営をやる外に、知人(しりと)の浜の方に土地を貸す。そして例えば四百円くらいの収入があるとすれば、その半額の二百円は浜料として佐野氏に納めなければならなかった。』

 『取引をするについても、前貸しをしているので、品物を四割増しに受取り、なおその上に四割引いて払うという随分乱暴な取引きをしたもので、それで苦情をいう者もなかったし、だからおかしいうそみたいな本当の話である。』

 この『釧路史誌』というのは、昭和五年十月から五回にわたって開かれた釧路市史の座談会の筆記録である。語り手は、佐野家の大番頭であった豊島庄作をはじめ、武富家の帳場の福富甚吉、中谷虎雄、神八三郎など、釧路の各界を代表する十二人の古老である。記憶違いとか、多少大袈裟な表現があったかもしれないが、まるっきり出鱈目な話ばかりではあるまい。しかも語り手自身、人が信用しないと思って、”嘘みたいな本当の話”とことわってまでいるのである。

 とにかく場所請負人(漁場持)の経営、それは多かれ少なかれ、漁民、アイヌの涙と忍従の上に立つものであった。”苦情をいう者もなかった”というが、云いたい苦情がやまほどあっても、それを云えないだけだったというのが実状であろう。苦情を云うことは、漁場での生存を否定することにつながるのである。米、味噌、塩など生活必需品の供給を一手に持っている漁場持に楯ついては、生きる権利を放棄しなけばならない、だから苦情を云わないのである。明治になってからは、自営を志す漁民の永住を期待した開拓使に対し、絶対的な経済支配力に物をいわせて、名前を漁場持と変えただけの旧請負人達のことである。『移住民総テ其方ニ委任候間、活計向追々相立ツ様スベキ事』と、移住民の生計の立つように配慮せよ、という注意があったとはいってもそれは”お達し”だけのこと、”四割増しの四割引”で昆布が取り引きされていることなど、知っても知らない顔をするのが得策というのが、当時の開拓使現地役人達の考えというものだったであろう。

 もう一つ例を示そう。明治三年の招募について、碑文には『家屋漁具一切孫右衛門之ヲ給与スト云フ』とある。明治三年の移住については、本文でもすでに述べたように、佐野氏が開拓使(実際には佐賀藩支配中であるので佐賀藩)に対し、『永住人として』報告をしたのではあろうが、実体は佐野家漁場への出稼ぎ漁夫と、佐野の着業資金前貸(仕込)を受けた自営志望漁民であり、だとすれば、家屋漁具等への孫右衛門氏の出費は、自己の経営する企業への資本投入であり、決して恩恵的な『給与』という性質のものではない。現に明治四年、釧路の昆布漁が流氷害で壊滅的打撃を受けると、佐野氏をはじめこの『永住人』達はすかさず佐賀藩に救済を頼み、佐賀藩が米塩味噌等必要物資の代金を貸し付け、佐賀藩が支配罷免の際に開拓使に引継がれた経緯を示す『開拓使公文録』も残っている。

 佐野氏の事蹟を讃えた碑文をいちいちあげつらうようで気が引けるが、撰文者や佐野氏個人に対し、特に遺恨や含むところがあるわけでは決してなく、場所請負とか漁場持というものの性格なり実態なりをできるだけ正確に知っていただきたいという本旨から筆を進めているに外ならない。

佐野氏の経営破綻

 さて、話を進めよう。釧路国を支配した佐賀藩のもとで漁場持を認められた佐野孫右衛門は、自営を志す昆布漁民や出稼ぎ漁夫を釧路群に繰りこませ、仕込みを通じたり、あるいは佐野自身の漁業に従事させて、場所請負時代の盛運をはかろうとしたが、ドッコイそうは問屋が降ろさなかった。まず、流氷害による昆布の不漁が彼の経営を揺さぶった。明治三年に八千八百石余の生産をあげた昆布が、翌四年にはわずかに一千百余石という手ひどい減産を余儀なくされた。また、漁場持としての権利を維持していくためには、この碑文で彼の「功績」と讃えられた、道路の開削を初めとする事業が漁場持という権利の代償として、公共事業として義務づけられたし、移民や出稼漁夫、アイヌ労働を定着させるに必要な、『医を聘シ療ヲ施ス』企業努力も当然必要となったからである。

 場所請負というのは、もともと支配下の漁夫やアイヌからの収奪の上に築かれていた繁栄である。それらに対する監督の眼が光り、還元する歩合が多くなれば、佐野氏の懐(ふところ)にはいる分が減るのはあたりまえのことである。その上、佐野氏自身、外国商人から多額の資金を借りての営業だけに、破綻(はたん)はすぐにやってきた。函館開港以来、函館居住の英国人・A・ハウルを相手に対清輸出昆布の取引を通じて資金の融通を受けていた佐野氏であったが、”アイヌ勘定”どころか”四割増しの四割引”の”どんぶり勘定”を配下に強制することでそれまではどうにか凌いでいたものの、日本や中国へ資本輸出を企ててくるほどの外国商人に対しては、とうてい対抗できる力倆はなかった。のしかかる債務の負担と、なさけ無用の取立によって破産寸前の窮地に追い込まれたのもまた”成るべくして成った”といえよう。

 こうした窮地に立たされては、もはや移民の世話やアイヌの撫育どころではなく、自らの漁業経営の見込も立たず、漁場持を辞退して函館へ退去した。

漁場持を免ぜられて函館へ退去せざるを得なくなった佐野氏に対して住民たちは碑文によれば「チョウチョウ(=くるうこと)トシテ斉シク別ヲ惜ミ涕(なみだ)ヲ流セシト云フ」とあり、「住民之を惜しみ、参々年間無給にて労働に服すべしと誓い翻意を請へるも容れず涙を揮って出発す住民は慟哭して別れを告げたり」(『釧路郷土史考』)というが、『郷土史考』のこの記述は『佐野家家傳』に拠ったというから、多分に顕彰的な表現や誇張となるのも無理はあるまい。佐野氏との別離がどのようであったかはともかく、佐野漁場で働く出稼ぎ漁夫や佐野の仕込みで昆布漁業に従事した漁夫たちは、そんな感傷にひたっているどころか、今日、明日の糊口(ここう=生活)にも困って佐賀藩の救恤(きゅうじゅつ)に頼らなければならなかったし、事実この時の借金が、明治九年現在でも漁民たちの肩に重くのしかかっていたのである。


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