根室出張開拓使庁の松本十郎判官は、佐賀藩時代の直営方式を廃し、生活物資、産物の仕入、販売やアイヌ撫育の一切を漁場持に委任する方式をとった。松本から釧路郡漁場持を委任されたのは、根室の柳田藤吉、浜中の榊富右衛門の二人であった。しかし彼等はなぜかその引き受けを辞退した。次に松本の意中にのぼったのが様似の萬屋専右衛門と、かつての魚場持・佐野孫右衛門である。しかし、松本判官としては、経営の不手際から多くの借金をかかえて漁場持を辞めた佐野の起用には慎重にならざるを得なかった。慎重な調査の結果はやはり、”不適格”であった。『松本直温ヨリ釧路郡漁場持人撰ニ関スル件申立』という『開拓使公文録』(明治五年一月)によると、釧路の漁場持起用に関する開拓使の克明な調査と慎重な配慮がよくうかがわれる。
申立の詳細は略すが、『佐野は外国人からの借金を含めて七萬両(円)もの莫大な負債があり、漁場持ともなれば直ぐに返済を迫られるだろうし、さりとて返済のメドがないばかりか、肩入れ(後見)してくれる人もいないようである。気の毒だが、佐野はあきらめたし、萬屋も前から釧路は引き受けられないという意向を持っているので、こうなれば、身元の確かな者と言えば十勝場所の杉浦嘉七以外には適当な者がいないので、同人に申受けたい』と黒田開拓次官に進言した。
このような経過で、杉浦嘉七が釧路、白糠群漁場持に選ばれた。
しかし、その杉浦嘉七も釧路の漁場持となることは辞退した。主産業の昆布を二年続きの流氷害でいためつけられた釧路漁場の経営に自信を持てなかったか、あるいはかつての同業者佐野に対する一種の気兼ねがあったのか理由はわからない。
この時の資金の調達方法や外国人からの借財禁止など八ヶ絛の達しを定め、この達しに違背しないことを条件に漁場持に任用するという異例の開拓使辞令が、佐野氏の遺族から寄贈をうけて釧路市が保存する『佐野家文書』の中に含まれている。
こうして、釧路漁場はまだ名目的には漁場持佐野の仕込や支配体制下にあったとはいえ、漁業資金の貸付制度の実施(明治六年)など、開拓使自体が漁業政策に積極的になり、移住漁民達も次第に佐野から独立して自営する機運に向かっていった。
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