このころになると、明治二年の請負制度廃止のころと違い、開拓使の施策も安定してきたし、漁場持自身、これに逆らうよりもその体制のもとで安定をはかるのが得策と考えるほど政府(権力)の力が強まってきたことによるものであった。
いずれにしても漁場持は、土地、人民を支配する保証を制度的に失ってしまった。釧路の漁場持佐野ももちろん同じである。もっとも佐野の場合は、漁場持再起用のときからすでに実質的には漁場持の機能を失っていたも同様であり、”来るべきものが来た”というだけに過ぎなかったであろう。
漁場持制度廃止の後、佐野は釧路郡漁場の権利一切を武富善吉に売り渡し、川湯アトサヌプリの硫黄事業に起死回生の道を見いだそうとした。しかし、産業資本家に転進しようとする佐野の目論見も結果的には成功しなかった。佐野の経営は長くは続かず、やがてこの経営権は函館の銀行家・山田 慎の手に買収されて没落の道をたどることになった。
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