4.佐賀藩支配と武富氏

(1)佐賀藩支配の意義


武富稲荷

 佐野碑園の背後の小高い丘の一角(料亭・八ッ浪のあるところ)に、『武富稲荷』という小さな祠が祀られており、ここから現在の南大通に下る坂道を『武富私道』と呼んでいる。( 祠堂の側に”武富私道”と彫り込んだ石の角柱も建っている)

 かつて、釧路郡漁場の主権者として栄華を誇った佐野家の没落についてはあらましを述べた。  この佐野漁場の権利を買収したのは、九州は佐賀県出身の武富善吉であり、この稲荷の 祠堂のあるあたりに彼の本邸があり、その屋敷内に勧請(かんじょう)した稲荷神社が、『武富稲荷』として現在は ”八ッ浪”を中心とする氏子(奉賛会)たちによって 祀りつがれている。

佐賀人脈

 佐賀藩の釧路国支配についてはすでに述べたが、この時、釧路国経営の御用達を命じられたのが、瀬戸内海方面で手広く回漕業(海運業)を営んでいたという同藩の有力商人・武富平作であり、善吉はその甥である。

 佐賀藩の北海道開拓に対する業績は、結果的に多くは稔らなかったとはいえ、その積極的な姿勢は特筆すべきものがあった。藩主・鍋島直正の初代開拓長官就任をはじめ、開拓判官となった藩士・島義勇(佐賀の乱で刑死)の札幌本府の建設などは北海道民にはいまだに”偉業”として語り継がれている一大都市計画であり、開拓使幹部として優れた業績を残した行政官も多い。

 明治九年、『広業商会』という半官半民の商事会社が設立された。官側資金の出所は大蔵省勧業局で、民間側から、笠野熊吉、武富善吉などの佐賀商人らが設立発起人として名を連ね、官民協調の衝に当たって斡旋の労をとったのが、これも同じく佐賀県出身の開拓使幹部西村貞陽であった。広業商会の取扱う商品は、中国向け輸出昆布をはじめ、鹿角、鹿皮のほか、かつて漁場持が扱っていたアイヌの生産物とアイヌの生活必要物資であった。

 漁場持制度廃止については先に述べたが、開拓使が漁場持廃止にふみきったのは、北見、根室、千島の漁場持の独占を排除することにあったのではあろうが、外貨を稼ぐ輸出昆布の集荷販売体制確立のメドがついたことがその背景にあったと思われる。つまり、広業商会の設立によって、漁場持の流通独占を排除することであった。武富善吉は函館を足場にして昆布貿易に従事し、同県人の笠野熊吉と協力、開拓使の西村貞陽らと清国市場を調査したりして商会を設立、釧路では佐野の漁場を買収して自ら生産に当たり、また厚岸には商会の出張所を設けて同県人の中川久平を派遣して現地の生産、集荷体制を固めた。

 広業商会は、釧路、厚岸地方の昆布漁民を安定、定着させる大きな要素になった。不安定な漁場持の仕込(前貸)とちがって、開拓使を通じて大蔵省勧業局の資金借入ができ、収穫品は、商会が一手に集荷販売するので、漁場持に収奪されていたころにくらべると、漁民の手に入る金はぐんと多くなった。

 広業商会は明治十八年、設立当初の目的をほぼ達成して解散、その昆布事業部門は同二十二年に設立される日本昆布会社に引き継がれていったが、広業商会の事業、換言すれば釧路地方の昆布漁業の安定=釧路地方の開発の推進力となったのが、武富、笠野、中川等の佐賀県出身者であり、その活躍を支えた地縁血縁的な基盤が、佐賀藩の釧路国支配に由因しているとみたい。

 武富氏について云えば、武富善吉はその後釧路銀行を創設するなど水産業を中核として釧路の産業経済界の牛耳をとり、実弟隆太郎は第五代釧路町長をつとめ、また、福富甚吉、古瀬恒次郎など釧路の政財界に活躍した人達を輩下に擁して、釧路の開発に多くの足跡を残している。


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