5.釧路郡釧路村

(1)釧路村誕生


戸籍区と行政区画

 明治二年の国郡制定で釧路国と釧路外六郡の区域境界が一応定まった。しかし、釧路郡内の実態といえば、海岸部分に少数の和人漁夫やアイヌが住んでいるだけで、群界、国界、といってもそれは単なる行政区画、言い替えれば地図の上の線引きに過ぎず、またそれでなんの不都合もなかった。つまり、住む人間がいないのだし、そこに行政(統治も自治も)の必要すら無いのも同然であった。

 しかし、三年には漁場持招募の移民、四年には佐賀藩の農工移民が入地してきた。中央政府でも明治四年の廃藩置県で、ようやく国内統治の体制整備が必要となり、四年四月、戸籍法を制定し、翌五年その編成に着手した。いわゆる『壬申戸籍』と呼ばれるものである。戸籍法の編成は、『戸口ノ多寡ヲ知ルハ人民繁育ノ基』という『府県施政順序』に則した統治の前提条件であり、政府では、旧藩時代の四〜五町、または七〜八村を一区とした戸籍区(五○○戸標準)を設定し、各区に戸長、副戸長を配置してその作業に着手した。その後この戸籍区は、単なる戸籍編成のための区画ではなく、戸長、副戸長を理事者とする国の行政区画の性格をも併せ持つように変質していった。

 ところで、北海道の場合は、松前藩政時代から町並み、村並みを作っていた松前、函館地方を除けば、かりに和人が住んでいたにしてもそれは場所請負人…漁場持に隷属する出稼人、移住者の集団、集落であり本州府県のような旧来の町村組織、自治制度はもとよりなく、区画、区域すら明確でなかった。それどころか、新たに移民を入植させて開拓しなければならないというのが行政の前提であった。

 それでも明治五年五月には、佐野孫右衛門に、釧路、白糠両群の戸長を命じ、なお川上、阿寒、足寄群も兼務して取扱うように命じている。佐野戸長の職務は、当然この年から始められた戸籍編成にあったはずであるが、この辞令からも推定されるように、当時の釧路地方は、釧路白糠川上阿寒足寄五郡を合わせて、ようやく当時の標準的な一戸籍区(四〜五町ないし七〜八村の旧町並・村並)に匹敵する人口規模でしかなかったわけである。

 ただ行政区画として、それまで郡の境域だけを定めていた釧路郡のなかにはじめて『釧路村』という区画をしたことになっている。しかし、この「釧路村」も、その範囲や境界となるとまことに曖昧で、今となってはこれを明確にすることは難しい。従来からの史誌等の記述によると、『明治五年、碇(イカリ)、幣舞(ヌサマイ)、浦離舞(ウラリマイ)、苧足糸(オダイト)、鬼呼(オニップ)、寄人(イヨロト)、春採(ハルトロ)を併せて『釧路村』と称えた』とあり、かつて、アイヌたちが呼びならわしていた釧路川左岸地帯のアイヌコタンを併せて『釧路村』を設定したのである。しかし、これでも春採の範囲はどこまでなのか、などということになると明確ではない。

 さらに、明治八年になると、『釧路郡釧路村に「米町」(こめまち)を置く』という記録があり、翌九年には、北海道でも大区、小区が設定され、釧路国は第二十四大区となり、釧路郡はその第二小区に編入され、郡内に、釧路村、桂恋村、昆布森村、跡永賀村、仙鳳趾村と米町の一町五村が行政区画として設定(区画)されている。


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