5.釧路郡釧路村

(2)昆布漁場・釧路


蝦夷地開拓の総括

 さてこのあたりでこれまでのまとめとして、との時期の釧路を概括してみよう。

 まず、ここで取り上げた時期は、江戸時代末期から明治十年代前半までの期間で、世界史的な見方からいえば、西欧先進資本主義国がアジアに資源と市場を求める動きがいよいよ活発になり、これに帝政ロシアの南下東漸がからんで、波動がますます大きくかつ複雑になってくる時期に相当する。また国内的にはこのような世界史の流れのなかで、鎖国…幕藩体制の維持をはかる保守勢力と、討幕を目論む公卿(宮廷)や諸藩の中下級武士や公武合体による旧体制の改善、延命を策す有力諸藩主らの、覇権を争う葛藤、あるいは攘夷を主張するものと開国を目指す者との対立、そしてその底流には、貨幣経済の浸透で分解を早めていく農村や貧窮の渕に落ち込んで行く下級武士団と、逆に富を集中、蓄積していく地主、商人層の複雑な対立、拮抗など、まさに激動の嵐を経てともかくも明治維新を迎え、『富国強兵』『殖産興業』を掲げて資本主義立国を目指した時期である。しかし、内政、外交における矛盾と試行錯誤は、多くの混乱と困難の繰り返しを重ねるだけで、先進諸国へ”追い付く”道のりはけわしかった。

 時代の波は北海道をも巻き込まずにはおかなかった。とはいえ、それは日本各地に襲いかかり、洗い流した激浪に比べればまださざ波程度に過ぎなかったのかもしれない。ロシアの南下もどうやら杞憂に終り、官幕内乱の落とし子となった函館戦争も住民にとっては比較的軽微な被害を残しただけでその幕を閉じた。

 ところでこの時代の北海道や釧路地方の歴史的な位置付けをどう総括するべきなのか。専門の歴史学者や地方史研究の先達がすでに多くの論述や見解を発表していることであり、筆者ごときがここで卑見を喋々するまでもなかろうが、本章をまとめる意味で総括してみよう。

 まず第一に、蝦夷地は、従来の幕藩体制の枠にはほとんど組み込まれていなかった新天地であり、しかも極めて広大な新領土といってよいものであった。幕閣の役人が『新たに一国湧き出ずるが如し』(休明光記)と述べたのももっともである。つぎにこの広大な新領土には、本州にはない資源を含めて、膨大な資料が未開発のままに包蔵されていたことである。しかし、第三点としては、これらの領土や資源が、直ちに国の権益や富財として安定、稗益するというわけにはいかなかった。

 その隘路となったのが、第一には国内の政治体制の不統一であり、第二に近代開発に必要な、資本、技術などの不足、稚拙であり、第三には外国勢力とくにロシアに対する領土保全に対する懸念であった。

 北海道開拓というのは、換言すれば、 この隘路に対する『対応』であり、開拓使設置に際して天皇が、『蝦夷開拓ハ皇威降替ノ関スル所』と勅語したように、たしかに国運を左右する程に重要な国家問題であった。

 しかし、すでに述べたとうり、まがりなりにも国内の統一も終わって中央集権の国家体制ができ、千島、樺太交換条約で、ロシアに対する懸念も一応回避されて、重要国策である北海道の開拓についても、国群の制定、開拓使の設置、拓地殖民と資源開発など、”殖産興業”の体制が”緒についた”わけである。

 もちろん、このような総括についても、議論の余地は多いだろうし、疑義もあろうと思う。例えば新規の”植民”というのは、本州の農漁村疲弊による脱落者や没落士族の”棄民”の言い替えであり、殖産興業というのは、運不天賦を頼りの漁業や外貨獲得に直結する輸出資源の略奪にすぎないとか、多額の国費を投じ、”お雇い外国人”を招いての”日本資本主義への実験”をしただけであるという観かたも成り立つかもしれない。また、こうした国策と開拓の実態とを捉えて、投入した国費の割には、”実効がなかった”とする評価や、逆に対露緊張の解消や各地の屯田入植による農業開墾をもって拓地植民の成功とか、ビール、缶詰などの官営工業や幌内の開抗、 炭礦鉄道の開通に、”近代文化の開花”とか”殖産興業の成果”と見る向きもある。しかしそれらについての論議や評価は、筆者の力の及ぶところではない。

「浜中と伯仲」

 釧路地方については、すでに述べたとおり、函館開港が釧路地方の昆布漁業を開眼させ、白糠炭山の開抗がやがて釧路炭田の開発へとつながり、明治になると川湯硫黄山の硫黄が輸出資源として採掘されたことがあげられるし、これらの殖産興業の使命をになって、漁場持招募漁民の出稼、移住、佐賀藩農工民の移住などが、特筆されなければなるまいし、この拓地殖民の結果、釧路群下に「釧路群」や『米町』などの”集落が形成された”と、概括してもよい。つまり、後年「釧路市」に成長する「釧路」(釧路村、桂恋村、米町)が、明治統一政治下の行政区画単位として固定し、この区画内で漁業を中核とする産業を通じて「共同体」を組成したといえる。

 しかし、輸出用昆布、硫黄、石炭などの産業の開発が”その緒についた”とか、”集落が形成された”などという表現は、ややもすれば読者に当時の釧路の姿を誤認させかねない。従ってここで一、二資料を提示してその当時の釧路の姿を想像、推定していただこう。

 明治十四年九月、十勝地方開拓の祖といわれる晩成社の依田勉三が、根室から十勝に向かってこの地を通過した。彼の記録である「北海紀行」には釧路の印象が次のように記されている。

 「…貸座敷、浦役場等あり、戸数凡そ八・九十にして、その盛昌、厚岸に次ぎ浜中に伯仲するという」

 同じ年の記録ではないが、釧路戸長役場の記録には明治十五年の釧路戸長役場管内(米村、釧路村、桂恋村)の戸口が、三百七十九戸、一、二百三十名とある。

 これらの資料を総合すれば読者にも、現在の米町入口付近に、戸長役場や数軒の商家を中心にした百戸足らずの人家の塊があったことと、知人から千代の浦、興津、桂恋に至る海辺のあちこちに昆布採りの漁家や番屋が点在した昆布漁村「釧路」の姿が彷彿とするであろう。

 百二十数年前、松浦武四郎の目に映った釧路、百年前、漁場持・佐野孫右衛門の仕込みのもとで、細々とその日の生業を送っていた昆布漁村・釧路を目に浮かべながら歴史散歩の足を進めよう。


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