1.漁場持廃止と産物自由化


外貨の獲得

 明治十年前半までの釧路は、要約すれば釧路から桂恋にかけての昆布漁村に過ぎなかった。もっとも、いくら”昆布漁場釧路”と概括できるといっても明治四年には、幅四間、延長七丁の米町道路が開削され、七年には郵便役所、八年には、聞名寺説教所、続いて十二年には公立病院、日進学校(現佐野碑園内)が開設されていることをみても、現在の米町入口付近は、釧路郡の中枢集落として市街化に進みはじめていることがわかる。

 この市街化の契機になったのが、明治九年の漁業持廃止とこれにともなう産物売買の自由化にあるのはいうまでもない。

 広業商会の設立が外貨獲得の昆布漁業安定に大きな役割を果たしたことはすでに述べたが、外貨を稼ぐのは昆布だけではなかった。川湯アトサヌプリ(硫黄山)の硫黄については「釧路川紀行」に詳しく書いたので、ここでは、昆布、硫黄に次ぐ貴重な資源、鹿皮、鹿角について述べよう。

 積雪の少ない北海道太平洋岸は鹿の棲息が多く、とりわけ胆振、日高地方は格好の鹿猟場であった。しかし開拓使札幌本府の建設や千歳道路の開削は、この鹿を十勝、釧路の台地へ追上げる結果となり、鹿猟の活性化をうながした。それまではアイヌの特産品であり、交易程度の収穫を保っていた鹿皮鹿角が、貴重な輪・移出商品になると、アイヌのアマッポ(仕掛け弓)程度では間に合わぬと、鉄砲を持った和人猟師ばかりか密猟者も横行、十勝、釧路の原野に文字通りの”逐鹿戦”を展開した。猟師たちが山野をかけ回れば行商人がこれを追いかけ、夜には狩小屋で鹿肉を肴にして酒を飲みながらの商取引、翌日になると皮や角は商人たちの手に渡って残骸は鳥や獣たちの餌、というすさまじい光景が随所に展開された。明治以前には、釧路、十勝管内でせいぜい六〜七百枚のアイヌ交易品であった鹿皮が、明治十一年には一万二千五百枚出産という”鹿皮ブーム”を出現させたが、乱獲がたたり、さらに翌十二年の大雪で大量の鹿が斃死し、ブームは再び現われなかった。しかし、釧路や、十勝大津港は、この”鹿ブーム”をあてこむ人々の往来で賑わいを見せるようになった。後年、釧路の大地主となる中川平太郎や海産商で名を成すヤマ六斎藤栄太郎らは、この”鹿ブーム”を演出した毛皮商でもあった。

利敏い商人

 利敏いのはなにも毛皮商人ばかりに限らない。猟師や行商人達の”アブク銭”を吐き出させるには女郎の手練手管が一番とばかり、妓楼、貸座敷がいち早く開業した。料理屋、貸座敷の始まりは先に揚げた「釧路史誌」によれば、

 「佐賀藩時代、小笠原某なる者が、南部から女を三人連れてきて、藩の役所へ開店の許可を願い出た。森山、伊藤などという役人がこれを許可した。それが明治四年のことである。」

 「今の巌島神社の近所の草原に草小屋の貸座敷が出来た。爺婆が、鱈の干したのやかすべの干した煮しめや、ししゃもの干したものなどをさかなに、木の枝の先を削って燭台としてロウソクをともす。客席に相手をする女は、棒縞の紅木綿の着物を着て侍(はんべ)る、という風で、何のことはない、狐にばかされているようだった」

 ということになり、いかにも狐狸と変わらぬ情景が目に浮かぶ。

 働けど働けど楽にならない漁師稼業になかば自棄気味になった出稼ぎ漁夫が、なけなしの懐中をはたいてあおる安地酒、”ゼニを握って故郷へ帰り、人もうらやむ嫁御を”という期待とは似ても似つかぬ白首の女に一夜の夢を託す漁夫も漁夫だが、狐の棲みか同然の草小屋で春をひさぐ女もまたさすがというべきである。干鱈をむしる手は節くれだち、ろくに梳きもしない髪で荒くれ男をつなぎとめるのだから情緒てんめんなどというものとはおよそかけはなれてすさまじい。

 その草小屋の貸座敷も、明治十二年頃ともなればさすがに草小屋の面影はなくなり「種子ヶ島」「金鱗」をはじめ、いくらか見られる構えの妓楼となって、芸妓十一人、娼妓二十二人が、妍をきそって漁師や行商人達の財布の紐をゆるめさせていた。

 芸、娼妓が店を張るほどにもなれば、米、味噌、塩などの生活必需品や荒物雑貨を商う人達が往来するのはあたりまえのこと、かつての漁場持のように大口需要を相手にするのはまだ函館商人に依存しなければならなかったが、函館から釧路への出張販売の度数も自然に増え、やがてここに店を構えてもどうにか採算がとれるようになった。

 もと佐野屋の支配人であった樋口雄蔵が、米町で呉服を商ったのが明治十二年頃といわれるし、後に荒物雑貨や醤油醸造を営む納谷留蔵が、函館から根室への行商の途次、ここで菓子の製造を始めたのもこのころである。酒の醸造は、遠く文化年間(千八百四年〜千八百十七年)にすでに南部杜氏の手で始められていたが、これはクスリ会所の直営醸造つまり現代風に云えば官営工業であった。しかし明治十二年になると、現南大通八丁目で須田徳右衛門が個人経営で地酒作りを始めていた。佐野の事業を買収した武富善吉や佐野から独立した豊島庄作や前田栄次郎らの漁業も順調に水揚げを見せ、これらの生産物を目当てに、前述の中戸川や原田幸吉らが海産物仲買を始めるようになるのも明治十四・五年の事である。

 このころになると、聞名寺、法華寺などの寺も建ち、”丸太学校”といわれた日進学校、公立病院につづいて、明治十三年には米町外二村(釧路村、桂恋村)戸長役場が現在の佐野碑園内に設置され、十五年には、米町の北東に真砂(まさご)町を設けるほど、街並みの体裁をととのえてきた。


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