橋の下の流れは「旧釧路川」である。昭和四十二年の建設省告示でそう呼ばれるようになったが、大部分の釧路市民は「旧」の字を冠(かぶ)せないで釧路川と呼び、現在の正式な釧路川(岩保木下流の人口放水路を含むもの)を「新釧路川」と呼びならわしている。
明治十年代になると、釧路の街が米町から真砂町へと北東方向へ連なりを見せはじめ、十年代後半以後にもなるとますますその傾向を強め、速度を増してくるが、この市街化とその北進には、この釧路川が深いかかわりを持っていることを特に強調したい。
「旧釧路川」の名のとおり、この幣舞橋の下を流れる水は、昭和六年の釧路川治水工事の完成で、屈斜路湖を水源とする釧路川の水が岩保木水門で閉められているため、ここには流れてきていない。しかし、それまではこの川こそが釧路川の本流として、釧路と内陸奥地を結接する導管であり、文字通り”母なる川”として釧路を育ててきた。
ではその”母なる川”の流れのあとをまた少したどってみることにする。
そのむかし、アイヌがこの川筋にコタンを持ち、川から生活の糧(かて)を得ていたとはここでは詳述しないが、要するに川は彼等の生活権、生活圏であり、通路であった。和人の往来が始まるようになっても、川が道の役目をになうことには変わりなかった。いや変わらぬどころか、アイヌ時代よりもっと往来は頻繁になり、しかも物を輸送する”輸送”の使命がますます倍加した。
佐野の事業は、山元で硫黄を粗精練し、馬背で標茶付近まで駄送し、そこから昆布採取用の船で釧路川を積み下ろす方法をとった。事業としてはきわめて原始的、かつ幼稚なものであり、とうぜん収益も多くはあがらず、彼の病気隠棲、弟・儀十郎の事業継承、そしてその死による西川幸右衛門の代理など苦難の経営を続けたが、結局、函館の銀行家である山田慎に買収されて、起死回生の策もまた”夢のまた夢”に終わった。ただ、標茶や弟子屈(川湯)に和人の生活の灯がともされた意義は評価せねばなるまい。
事業が山田の経営に移ってからは、礦夫の数も若干ふえ、精練用の燃料に九州からの石炭を利用する計画をたてたりしたようだし、事業に改善の手を加えているようだが、いずれにしても前近代的な”山師”の事業であり、標茶、川湯も、集落形成というよりは、出稼ぎ者の飯場がつくられたという域を出ない。
幣舞橋上にたたずみ、硫黄山から駄送と曳き船で釧路まで運ばれてきた叭(かます)詰めの硫黄の荷姿を瞼(まぶた)に浮かべながら、もう少し釧路川への回想をつづけよう。
川湯、弟子屈と釧路との中間に標茶の町がある。昭和四年以前は川上郡熊牛(くまうし)村といった街である。クマとはアイヌ語で魚を干す竿、ウシは有る、ということで、釧路川を遡上する鮭を獲り、これを干す葭や笹がたくさんあって都合がよかったことからアイヌたちはそう呼んでいた。当然川べりのあちこちにコタンつくられた。塘路、虹別そしてこれらのコタンの中心点としての標茶(シベチャ=大川のほとり=)などがそれである。明治以後もしばらくの間は、鮭漁の時期に佐野漁場の番屋に番人が往来するていどで、アイヌたちのいうとおり、 葭 や笹に覆われたクマウシの原に過ぎなかった。
しかし、明治十八年になると一変する。
また情勢変化の第二は、川湯硫黄山の経営が山田慎から安田善次郎(安田財閥の始祖)の手に移ったことである。
釧路集治監の設置と安田の硫黄事業経営については、『釧路川紀行』にその詳細をゆずるが、要するに熊牛原野の一角に、一時は釧路より大きな市街を出現させたし、その釧路をも、昆布漁村からぬけ出させることになった。
安田炭鉱はその後木村組炭鉱から現在の太平洋炭礦へと引き継がれて、釧路経済を支える大きな柱となっているし、硫黄軌道は釧路臨海鉄道の一部(臨港駅〜知人間)として、現在もなお石炭輸送の役目を果たしている。このほか春採湖畔から千代ノ浦、米町通りを通って港頭に達する馬車軌道も安田炭鉱時代に敷設されたもので、”安田の馬鉄”と呼ばれて馴染みの深いものであった。
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