安政の箱館開港がキッカケになって白糠の石炭が掘られ、それが北海道の石炭採掘のはじまりになった、罪人や素行不良の者たちがこの石炭山に就労させられていた。
明治になって佐賀藩が釧路国を支配したが、同藩では釧路地方の石炭資源に着目し、明治四年移民を送りこむにあたって、もと石炭坑夫であった者を多数派遣し、オソツナイ(現益浦地区)抗の開抗を計画していたようである。しかし、諸藩分領の廃止でこの目論見も結局陽の目を見ず、釧路の石炭もエネルギー資源としては見向きもされず放置されていた。釧路の石炭が、近代産業資源として本格的に採掘がはじめられるのは、明治二十年安田善次郎が川湯の硫黄事業とともに春採炭山の経営を手がけてからである。
春採(当時春鳥とも書いていた)鉱の当時の鉱区面積は一〇七、六六八平方メートルで、タガネとツルハシで炭層を砕き、唐鍬(とんが)やジョレンの様なもので箕(み)にかき集め、竹籠に入れてひきずり出す方式で、いまのチャランケチャシの南寄りに出ていた露頭から小さな坑道を掘っていったというから、資本制生産とか近代産業とはいってもまだまだお粗末なものであった。
先山であるトウチャンは、木綿のシャツにドンブリの腰掛け、股引きみたいなズボンに草鞋(わらじ)がけといういでたち。腰から尻にかけては、腰ぶとんをあててその下に”アテシコ”というワラで編んだ座布団の様なものを重ねて坐り、ツルハシをふるい、タガネをうつのである。
先山のトウチャンの掘った石炭を運ぶのはカアチャンか子供の役目であった。ひざにわらじをあてて四つん這いになり、七貫五百匁(約二十八キロ)入りの竹かごを”からい”にくくりつけて引き出す恰好はまさに珍無類というほかない。炭塵で真っ黒によごれた顔には、汗の流れだけが幾筋も形どられ、目だけがギラギラ光っているといった具合で、胸をはだけて涼をとる姿でも見ない限り、男女の見分けもトンとつかない。
トウチャン、カアチャンの”二チャン採炭”、あさはまだ暗いうちから起きて、何挺ものツルハシをかついで抗(あな)に入り、十時間から十二時間も働き、採炭が終れば終ったで、アマくなったツルハシに”焼き”を入れなおして明日に備えなければならない。こうして一日中、地の底を這いずり回って賃金は一人一日四十銭。当時中等程度の白米一升が、八銭ぐらいだったから、五升の白米が買える勘定だが、酒が楽しみのトウチャンが一杯飲みたいと思ったらたいへんである。上等清酒が一升二十三銭で、一日の働きの半分が上酒一升してしまうわけだから、せいぜい安い地酒か焼酎で我慢するしかないわけである。
住居は、抗口近くに建てられたバラックのハモニカ長屋。隣との仕切はむろん、外囲いも薄っぺらなサクリ一枚。天井も押入もない十畳一と間に炉と”流し”ついているだけである。板敷きにはゴザやうすべりが敷いてあれば良い方で、板の木目が透けて見えるようなムシロを敷いているものもあったし、それすらないものが多かった。
燃料だけはお手のものとはいっても、ストーブなどは買えるはずもなく、”いろり”で直(じ)かに燃やすものだからたまらない。くすぶる煙は小さな天窓からは容易に抜け出さず、家の中に黄色い煙がたちこめる状態であった。だが、”必要は発明の母”。やがて小穴をあけて風通しをよくした石油缶に石炭を入れて戸外で燃やし、真っ赤な”オキ ”(コークス状)にしてから家の中に入れるという生活の知恵も生まれた。
単身、独身の坑夫達の住居はご存じの”飯場”。こわい飯場頭が仕事から解放された飯場の生活にもなにかと介入する。坑夫の暴動や逃亡を看視するのも役目の一つである。会社から支給する賃金の一部をピンハネされても、うかつに文句をつければ棍棒がとんでくるし、ニラミはきくし、腕力も肝っ玉も、新入りの坑夫たちのとうてい及ぶところではない。
開抗当初、十人から十五人ほどで細々と採炭していた安田炭山も、明治二十三年には約五千トンと出炭量がふえ、硫黄精練や釧路鉄道など安田の自家消費では余るようになり、釧路に入港する汽船の燃料などに売られるようになった。
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