3.市街地の増設

(1)宮本郡長の上申書


 釧路集治監の囚人労働による産業基盤整備(幹線道路の開削や釧路川浚渫)と、これに便乗したかたちの安田の進出が、標茶や釧路の市街地形成に大きな転機をもたらしたことは今も述べたとおりである。

 こうしたことから、明治二十年十月、釧路郡長、宮本萬樹は北海道庁に対し、次のように市街地の増設に上申している。

 所下釧路市街は、近年陸産の興起と共に追日移住民増殖し、殊に本年の如きは俄然人の輻輳する所となり、船舶の入港毎に渡航の移民あらざるなく、日に月に開進の勢あるも、家屋に乏しき土地、限りある家屋を以て、この限りなき移住民の寄宿に差支、現に一家に二三戸宛寄宿する有様にて、到る所日々争ふて建築をなすも、狭溢なる市街もはや其余地無之、止むを得ず市街に沿うたる丘上の地を宅地になさんと続々出願する者あり、依て先に十二の道路を開き坪数を定め、其左右は既に望人に割渡すも未だ漸く四十四戸に満たず。次いで他道を開削せざれば他出願者の望に応ずる能わず、然るに本年度は最早工費なく、如何せん来る二十一年度を待たざるを得ざる場合、果して他道なり今日の勢を以て進歩するときは、丘上一面の原野変じて一大市街に化するは実に遠きにあらざるなり。

 釧路は元釧路国の総稱にして、釧路村の始めて公稱せしは明治五年三月、碇(イカリ)外六村を併せて本村を置き、次いで八年四月釧路村を割き、後十五年九月米町及び釧路村の内を割き真砂町を設置せり、然るに釧路村の範囲たる、西方釧路川以西は鳥取村と接し、東桂恋村と字奥津内を以て界し、北は字在岸内及鳥問士の山脈を以て阿寒群に限り、南一方は海に面し、其範囲たる此れの如く広大なりというべし。 而して釧路市街、近来頻りに戸口増加し家屋連亘せしため、該村は漸次外囲に退歩し、開進に従い地位を譲らざるを得ざる有様に付、寧ろ村名を廃し更に左の如く町村名を設置致度候。

 米町真砂町に丁数を設け各一丁目より三丁目迄とす。

 米町に沿うたる東方の丘上は、米町と同じく土人これをイカリと稱す、イカリを訳すれば山越の意なり、依て此丘上を山越町と名付け一丁目より三丁目迄とす。

 真砂町三丁目以北釧路川沿を釧路町として一丁目より三丁目迄とす。

 真砂町に沿うたる東方丘上は、僅か十二の道路あるのみなるも割渡せし宅地は既に四十余戸あり、此丘上は土人これを浦離舞と稱し、且釧路港を望見する以て浦見町と名づけ、米町火防線より郡役所前道路迄を一丁目より五丁目迄とす。

 郡役所前道路以北の丘上は、往時幣舞村に属せしを以て幣舞町と名づけて一丁目より三丁目迄とす。

 同上幣舞以北字茂尻矢に至る市街地は此茂尻矢に土人の大なる堡あり、曽て寛政中、国後乱の時有名なる酋長オニトムシの建築せし城址なり、依て之を城山町と名づく。 

 釧路村春鳥湖口より西方米町火防線に接し、北春鳥湖岸の丘上に付する町名は、湖名ハルトウロの土人語を訳すれば黒百合湖岸に生ずるの意なり、依て之を花生町と名づく。

 真砂町の西に在る釧路村字苧足糸の地は、海河と市街を以て画し殆ど三角形をなせり、土人語を訳すればオタは崎の義、即ち洲崎と言う義を取て之を洲崎町と名づけ一丁目より二丁目迄とす。

 釧路村の内、釧路川以西阿寒太より字幣舞を経て、海岸頓化に至る地を、悉皆鳥取村に属す。

 釧路村の内、知人以北桂恋村境字奥津内を限り、北方は字在岸内及鳥問士まで、西南は城山町及花生町に接し、西北釧路川を限りて春鳥村とす、是れ有名なる春採湖の外囲を包むを以てなり。(後文略す)

 上申にある「陸産の興起」とは、安田の経営による硫黄の出産増加と春採炭山の開抗を示すものであるし、「船舶の入港毎に渡航の移民あらざるなく」は、標茶における「踵を接する」繰り込みに対応するものであるが、それらは、「内地不景気より続々踵を接して渡航せしものにして、恰も釧路集治監の設立に際立たせるを以て、目的を定めず地況を察せず、一時の機に投じ利を得んと欲するものの如し」(『北見釧路国巡回日誌』)であり、景気を当て込んだ無計画な移住が多かったことは察っせられる。

 ともあれ、釧路、標茶の急激な人口の増加で釧路は二十一年七月、洲崎、浦見、幣舞の三町が誕生した。

愛北橋

 明治十八年以降、標茶と釧路の人口急増の傾向は縷々述べたが、釧路市街の増設とともに忘れられないが「愛北橋」の架設である。この当時の釧路川は川幅が今の二倍以上もあり、しかも現在の入舟町付近から東側の高台にそって深くえぐれていた。(入船町は、明治三十二年に埋め立てを始め三十六年に完成した埋立地である)このため、川と台地との間の平地(真砂町のある部分)がせまく、この狭い部分からはみだす人家は、東側の高台か川向かいに伸びざるを得ないのは先の郡長の上申でもあきらかである。だが、西(川向う)へ伸びるには釧路川の大きな流れが邪魔になった。川幅は二百メートル以上もあり、渡船が唯一の交通手段であるから、右岸へ住居を定めるのをためらうのも無理もない。

 明治十九年、宮本郡長は、この架橋の急務であることを上申したが、架橋費のような多額の出費が無理だったためか、官費による架設はできなかった。そこで宮本郡長が民間の費用による架橋を考え、愛北物産合資会社にこれをはかり、同社も宮本郡長の要請に応じて架橋を実現した。明治二十二年九月のことである。橋の名は架設者の名に因んで「愛北橋」と呼ばれ、現代流でいう有料橋であった。

 愛北橋は釧路川に架けられた最初の橋であり、やがてこの位置に、初代から五代にわたる幣舞橋が架け換えられて、釧路川をはさんだ釧路の南北両市街の交通大動脈として、釧路市街の形成に大きな役割を果たすことになった。


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